今日は、私自身が長年感じてきた日本の職人礼賛に関する違和感について、じっくりとお話ししたいと思います。
テレビメディアでは昔から「日本の技術はすごい」「匠の技が世界を驚かせる」といった番組が繰り返し放送されてきました。海外から来た若者が日本の刃物職人に弟子入りする、といったストーリーもよく見られます。
もちろん、職人の努力や積み重ねを否定したいわけではありません。むしろ尊敬すべき点は多くあります。しかし、どうしても拭えない違和感があるのです。
「技術さえあれば大丈夫」という昭和の幻想
日本の社会には長らく、「良い技術を持っていれば世界は放っておかない」という価値観がありました。昭和の高度成長期、日本製品が世界中を席巻した成功体験が、その思想を強固なものにしました。
しかし、その成功体験があまりにも大きかったために、「技術さえ良ければなんとかなる」という慢心が社会全体に染みついてしまいました。
その結果、技術ばかりが美談として語られ、
マーケティング
デザイン
スピード感
といった、現代の競争で不可欠な要素が軽視されてしまったのです。
世界が次々と変化する中で、日本だけが昭和の成功体験にしがみついてしまった。その結果、他国にあっさり追い抜かれる状況が生まれています。それでもなお、テレビでは「日本の職人は世界一」という物語が繰り返され続けています。
職人は「神様」ではなく、生活者だった
私が特に違和感を覚えるのは、職人がテレビ番組によって半ば神格化されている構図です。
確かに、長年積み重ねてきた技術は大きな価値です。しかし、現実には職人の多くは「生活のためにその仕事を選んだ人たち」です。
家の近くに工場があったから
安定した職に就きたかったから
他の選択肢を試す勇気がなかったから
そんな理由で職人の道に入った人も多かったはずです。文化の担い手としての使命感よりも、日々の暮らしを守るために働いてきた生活者でもあります。
ところが、彼らのこうした“生活者としてのリアル”は、
「技術の継承は日本の宝」
という大きな言葉に飲み込まれ、見えなくなってしまうのです。
礼賛が「挑戦」を奪い、伝統を固定化させる
伝統工芸の世界では「型(かた)を守ること」が重視されます。型を守ること自体は悪いことではありませんが、型を守ることで評価が守られる構造になると、そこに挑戦が生まれにくくなるという問題が出てきます。
本来、文化は「型を身につけ、それを破る人」が出てくることで前進します。ところが日本では、職人を礼賛しすぎることで、型を破るための動機や必然性が生まれません。結果として、伝統が固定化し、社会全体の空気まで保守的になってしまうのです。
日本の職人像は、世界的に見ても“異例”だった
さらに言えば、日本の“職人像”は世界的に見ても特殊です。
昭和の日本では、職人や工場労働者は
終身雇用
手厚い社会保障
ボーナス
安定した収入
を手に入れた、恵まれた小市民の階層でした。
家を建て、家族を養い、安定した生活を送ることができる「守られた職人」像は、世界ではほとんど見られません。
一方、東南アジアの職人は、賃金が低く、過酷な環境で働くことも多く、代わりがいくらでもいるとみなされる場合もあります。
つまり、日本のように職人が尊敬され、文化的価値として扱われる国は極めて稀なのです。
この点を理解すると、日本の職人礼賛はかなり特殊な歴史的背景に基づいていることがわかります。
職人神話から自由になるということ
そのような背景を踏まえると、日本の職人礼賛は決して普遍的な価値ではなく、ある時代が生み出した“物語”に過ぎない、ということが見えてきます。
もちろん、社会はさまざまな仕事によって成り立っており、地味な作業を丁寧に続けてくれる人の存在は欠かせません。しかし、だからといって職人の仕事を必要以上に美化し、神格化してしまうことには危うさがあります。
本来の目的は、技術の維持ではなく、社会の進化です。
本当に必要な技術であれば、若者が自然と継ぐでしょう。
逆に消えていく技術は、時代に適応できなかっただけです。
職人神話にとらわれすぎると、
挑戦者が育たない
新しい文化が生まれない
社会が保守化して停滞する
というリスクが生まれます。
例え話:古い時計台を崇める社会
日本の職人礼賛は、まるで「古い時計台」を過剰に崇めるようなものです。
古い時計台の仕組みは美しく、確かに技術の結晶です。
しかし、そればかりを褒め称え、修理や維持にばかり力を注ぎ続けると、
新しいデジタル技術を導入する機会を失ってしまいます。
時計台の価値を認めつつも、それを「神話」にしてしまった瞬間、社会の時間は止まってしまいます。
私たちが大切にすべきなのは、過去の技術ではなく、未来へ進むための柔軟さなのです。
日本の職人たちの努力は素晴らしいものです。しかし、その価値を冷静に見つめ直し、「神話」として過剰に持ち上げない姿勢こそ、次の時代に必要な視点ではないでしょうか。
また次の記事でお会いしましょう。