現代は「自由な時代」と言われます。
価値観は多様化し、生き方も働き方も選択肢が増えました。理屈の上では、誰もが好きな道を選べる社会になっています。
しかし体感としてはどうでしょうか。
むしろ、自由に生きることそのものが、かつてより難しくなっていると感じる人も少なくありません。
この矛盾はどこから生まれているのでしょうか。ここでは、過去の時代との比較を手がかりに考えてみます。
かつての社会:不自由だが「選択の重み」があった
かつての日本社会は、現在よりも明確に「型」が決まっていました。
会社を辞めること、定職につかないこと、既定の人生ルートから外れることには、大きな社会的コストが伴いました。
しかし、この不自由さは別の意味での「重み」を生んでいました。
社会から外れる選択は、戻れない可能性を伴いました。
だからこそ、その選択自体が覚悟の証明になりました。
逃げ道が少なかった分、逸脱する行動そのものに、強い意味が宿っていました。
現代社会:自由は増えたが、選択は軽くなった
現代は、選択肢そのものは大幅に増えています。
転職、独立、海外移住、フリーランス、複業など、以前なら特殊だった生き方が一般化しました。
しかし同時に、「自由な生き方」そのものがテンプレート化しています。
SNSや動画では、成功した誰かの人生モデルが大量に流通しています。
その結果、本来は個人的なはずの選択が、「既に用意された型」の中から選ぶ行為に変わりやすくなっています。
自由に見える選択も、実際には既存の物語の中に配置されていることが増えています。
「自由が苦しい」理由
現代の自由が難しい理由は、選択肢の多さそのものではありません。
むしろ問題は、「選択の意味」を自分で引き受けなければならない点にあります。
昔は、社会が選択の意味を決めてくれました。
今は、その意味づけを自分で行う必要があります。
さらに、いつでも別の道に切り替えられる環境は、安心を生む一方で、選択の重みを薄くします。
その結果、「これでいいのか」という不安が消えにくくなります。
現代における自由の難しさ
この時代において難しいのは、「自由になること」そのものではありません。
難しいのは、他人が用意したストーリーに乗らずに、自分の位置を自分で引き受けることです。
成功モデルを借りれば、安心は得られます。
しかし同時に、どこかで「借り物の人生」という感覚も残ります。
自由とは、選択肢の多さではなく、選択の責任を引き受けることに近い概念なのかもしれません。
自由とは「選べること」ではなく「引き受けること」
本当の自由は、特別なライフスタイルを指す言葉ではありません。
自分の立場、自分の能力、自分の環境、自分の選択を、言い訳なしに引き受けること。
それは派手さはありませんが、最も重く、そして最も個人的な自由です。
現代は確かに自由な時代です。
しかしその自由は、「どの物語に乗るかを選べる自由」ではなく、「自分の人生に意味を与える責任を持つ自由」なのかもしれません。
そして、その責任の重さこそが、自由を難しく感じさせている理由なのかもしれません。