現代の情報発信では、多くの人が「意味」を求められています。
役に立つことを言わなければいけない。
学びを提供しなければいけない。
知的でなければいけない。
深いことを語らなければいけない。
YouTubeでもSNSでも、「価値提供」という言葉が半ば常識のように使われています。
しかし一方で、実際に多くの人に見られているのは、必ずしも“意味の濃いコンテンツ”だけではありません。
ただ散歩している動画。
部屋でぼーっとしている配信。
淡々と料理をするだけの映像。
何も主張しないVlog。
こうした「無意味」に見える発信が、なぜか強い。
しかも、単なる一時的流行ではなく、一つの巨大なジャンルとして成立しています。
これは偶然ではありません。
むしろ現代では、「無意味」であること自体が、極めて強力な発信戦略になっているのです。
「意味がある発信」は、攻撃されやすい
まず前提として、「意味を語る」という行為にはコストがあります。
政治を語れば批判される。
人生論を語れば矛盾を突かれる。
知識を語れば浅さを指摘される。
つまり、「意味のある発信」は、常に評価の土俵に乗せられるのです。
そこでは、
- 正しいか
- 間違っているか
- 深いか
- 浅いか
- 一貫しているか
がチェックされ続けます。
発信者は、常に“責任”を背負うことになる。
これはかなり消耗する構造です。
ところが、「無意味な発信」は違います。
最初から大した主張をしていない。
だから、
「中身がない」
「役に立たない」
と言われても、
「はい、その通りです」
で終わってしまう。
つまり、批判が成立しにくいのです。
これは、非常に強い防御力です。
「意味の空白」に、人は勝手に感情を投影する
では、なぜ無意味な発信がコンテンツとして成立するのでしょうか。
それは、「視聴者側が意味を埋めるから」です。
例えば、何気ない日常Vlogを見て、
「癒やされる」
「こういう生活いいな」
「自由そう」
「なんか落ち着く」
と感じる人がいます。
発信者自身は、そこまで明確なメッセージを語っていないかもしれない。
しかし、空白があるからこそ、見る側が勝手に意味を投影できる。
これは非常に現代的な構造です。
強い思想を押し付けられると、人は疲れます。
しかし、意味が薄いコンテンツなら、自分に都合よく解釈できる。
つまり、「無意味」なのではなく、
“意味を視聴者側に委ねている”
のです。
「無意味」と「ナンセンス」は違う
ただし、ここで一つ重要な違いがあります。
それは、「無意味」と「ナンセンス」は別物だということです。
この二つは混同されやすいのですが、構造が違います。
無意味とは、「意味を置かないこと」です。
淡々としている。
主張しない。
空白を保つ。
これは比較的、誰でもできます。
一方で、ナンセンスは違います。
ナンセンスとは、「意味を壊すこと」です。
文脈をズラす。
違和感を生み出す。
常識を破壊する。
そこには高度な感覚が必要です。
つまり、
- 無意味=空白
- ナンセンス=意味破壊
なのです。
無意味は量産できます。
しかし、本当に優れたナンセンスには才能が必要になる。
ここは大きな違いです。
無意味な発信は「積み上がらない」
では、「無意味な発信」が最強なのかというと、そう単純でもありません。
なぜなら、無意味な発信には弱点があるからです。
それは、
積み上がりにくい
ということです。
無意味な発信は、防御力は高い。
しかし、思想としての厚みが生まれにくい。
長く続けても、「その人が何を考えているのか」が見えにくい。
だから、熱狂的な支持にはなっても、“文明的な蓄積”にはなりにくい部分があります。
一方で、「意味を語る人」は消耗します。
批判される。
矛盾も出る。
疲弊する。
しかしその代わり、積み重ねによって思想になっていく。
つまり、
- 無意味=壊れにくい
- 意味=積み上がる
という違いがあるのです。
現代人は「意味疲れ」している
そもそも、なぜ今これほど無意味な発信が求められているのでしょうか。
それは、多くの人が「意味」に疲れているからだと思います。
SNSを開けば、
成功論。
努力論。
人生論。
政治論。
自己実現。
みんなが何かを語っている。
しかも、「正しく生きろ」という圧力が強い。
だからこそ人々は、意味の薄いコンテンツに癒やされる。
ただ料理しているだけ。
ただ歩いているだけ。
ただ暮らしているだけ。
そういう映像に、「何も求められない安心感」があるのです。
あなたはどちらを選ぶのか
発信において重要なのは、「中身があるかないか」だけではありません。
どの構造を選ぶかです。
- 防御力の高い無意味
- 消耗するが積み上がる意味
どちらにも強みがあります。
現代は、「意味を語る人」が疲弊しやすい時代です。
だからこそ、「無意味」が強い。
しかし同時に、本当に長く残るものは、多くの場合、“意味”を引き受けた側から生まれてきました。
結局のところ、発信とは、
「どこまで責任を背負うのか」
という選択なのかもしれません。