最近、YouTubeを見ていて、どうしても気になってしまうことがあります。
それは、多くの動画が妙に「わざとらしい」ということです。
大げさな驚き方。
不自然なハイテンション。
必要以上のリアクション。
感情を誇張したサムネイル。
もちろん、エンターテインメントとして成立させるための演出なのでしょう。
しかし、あまりにも過剰になると、こちらは逆に冷めてしまう。
「本当に普段からそんなテンションなのだろうか」
と、つい考えてしまいます。
今回は、YouTubeに漂う“わざとらしさ”の正体と、その背景にあるテレビ文化について考えてみたいと思います。
YouTubeには「演技」が溢れている
今のYouTubeでは、多くの発信者が「反応」を大きく見せようとします。
少し驚いただけでも大騒ぎする。
普通の料理でも「ヤバすぎる!」と叫ぶ。
何でも感情を最大化して表現する。
さらに、サムネイルでは、
- 口を大きく開けた表情
- 極端な怒り顔
- 泣いている顔
- 赤字の強調文字
などが並びます。
つまり、「感情」を商品として加工しているのです。
これは単なる偶然ではありません。
クリックされるため。
再生されるため。
アルゴリズムに好かれるため。
非常に合理的な計算です。
しかし、その合理性があまりにも露骨になると、視聴者側は「演出の存在」を意識し始めます。
そして、
「盛り上がっている“フリ”をしている」
ように見えてしまう。
ここに、独特の疲労感があります。
YouTubeは「小型テレビ化」している
では、なぜこうした演出がここまで広がったのでしょうか。
その背景には、日本のテレビ文化があります。
戦後の日本人は、長い間テレビを中心に娯楽を受け取ってきました。
特にバラエティ番組では、
- リアクションは大きい方がいい
- 声は大きい方がいい
- オーバーな方が伝わる
という文化が強かった。
少し驚いただけでも椅子から転げ落ちる。
少し面白いだけでも全力で笑う。
つまり、テレビでは「感情を誇張すること」が技術だったのです。
そして現在、多くのYouTuberが、その文法をそのまま継承しています。
結果として、YouTubeは本来自由なメディアだったはずなのに、徐々に「小型テレビ」のようになってきました。
本来、YouTubeはもっと静かなメディアだった
興味深いのは、YouTubeというメディアそのものは、本来もっと自由だったということです。
テレビのように高額な制作費もいらない。
芸能事務所もいらない。
スポンサーへの配慮も少ない。
だからこそ、本来はもっと多様な表現が可能だった。
静かに話してもいい。
長く考察してもいい。
間があってもいい。
しかし、広告モデルとアルゴリズム競争が進む中で、「目立つ演出」が有利になっていきました。
その結果、多くの発信者が、似たようなテンション、似たような編集、似たようなリアクションをするようになった。
つまり、
YouTubeがテレビから自由になるはずだったのに、逆に“テレビ的最適化”へ向かっている
のです。
YouTubeには「二つの文化」が共存している
ただし、現在のYouTubeには、二つの流れが同時に存在しています。
一つは、
- 派手
- 感情的
- テンポ重視
- リアクション重視
の「エンタメ型」。
もう一つは、
- 落ち着いた語り
- 長尺
- 知識重視
- 空気感重視
の「知識・空間型」です。
後者では、無理に盛り上げない。
むしろ、「静けさ」そのものが価値になっている。
例えば、
淡々と旅をする動画。
静かに話す解説動画。
生活音だけを流す映像。
こうしたコンテンツは、テレビ的な「騒がしさ」とは逆方向にあります。
そして近年、疲れた視聴者ほど、こちら側へ流れている印象もあります。
「盛り上げ続ける」は、かなり不自然である
そもそも、人間は本来、常にテンション高く生きているわけではありません。
静かな時間もある。
ぼーっとする時間もある。
言葉に詰まる瞬間もある。
しかし、現在の動画文化では、その“普通さ”が削られやすい。
編集で切られる。
テンポを上げられる。
感情を増幅される。
結果として、「常に盛り上がっている人格」が量産される。
しかし、それはかなり人工的です。
だから視聴者は、どこかで違和感を覚える。
「これは演技なのではないか」
と感じ始めるのです。
メディアは今、過渡期にある
おそらく今のYouTubeは、一つの過渡期なのだと思います。
テレビ文化を引き継いだ「大げさな演出型」と、
それに疲れた人々が求める「静かなコンテンツ型」。
両方が混在している。
そして、どちらが長く残るのかは、まだ完全には決まっていません。
ただ個人的には、今後は「騒がしさ」よりも、「落ち着き」へ向かう流れも少しずつ強くなるのではないかと思っています。
なぜなら、人間は刺激に慣れるからです。
刺激が過剰になると、逆に静かなものが欲しくなる。
だからこそ、過剰演出に疲れた時代には、「普通に話す」「普通に映す」こと自体が、新しい価値になるのかもしれません。