今回は、日本社会でよく見られる、ある不思議な現象について深く掘り下げてみたいと思います。それは、「なぜ、日本の芸能人やスポーツ選手、そして経営者といった社会的に成功した人々が、引退後にこぞって焼肉屋を開きたがるのか?」という問いです。単なるグルメの話ではありません。この問いの裏には、日本社会が抱える根深い問題が隠されているのかもしれません。
成功者の「焼肉屋開業」という選択
テレビやニュースを見ていると、「また成功者が焼肉屋をオープンしたのか」と、思わずつぶやいてしまう方もいるのではないでしょうか。もちろん、焼肉は美味しく、私たちにとって身近なご褒美であり、ささやかな贅沢の象徴でもあります。子供の頃、「今日は焼肉だぞ!」と言われれば、それだけでテンションが上がった経験は多くの人にあるはずです。焼肉は、頑張った日のご褒美、家族団らんの象徴であり、まさに「夢の象徴」であり、庶民のささやかな幸福の形でもあったのです。
成功者が自分の名前を冠した焼肉屋を持つことは、ある意味で自身の人生を具現化しようとする行為だとも言えます。ギラギラした内装に高級和牛を並べ、過去の栄光を演出する場ともなり得ます。
「引退の難しさ」と「次の人生の設計図」の欠如
しかし、この現象を少し引いた目で見ると、日本社会の**「出口のなさ」**が見えてきます。
日本では、引退が非常に難しいのです。
- スポーツ選手は、引退後に第二の人生のロールモデルが少ないのが現状です。現役時代の華々しい活躍に比べて、次の人生への切り替えが難しい人も少なくありません。
- 芸能人もまた、仕事が減っても現役当時の夢を諦めきれず、YouTubeなど別の舞台に移って活動を続けることがあります。
- 会社経営者も同様に、70歳を超えても会長や相談役として会社に君臨し続けるケースが多く見られます。
つまり、スポーツ選手も芸能人も経営者も、誰もが表舞台から降りようとしない、あるいは「降り方がわからない」のです。これは個人の問題というより、日本社会の構造的な欠陥であります。
「引退して、じゃあ何をするのか?」という**「設計図」が、日本の教育にも文化にも欠けている**のです。引退を「敗北」と捉える見方や、「ずっと現役で働き続けるのが美徳」という考え方、あるいは「自分の名前をこの世に残さなければならない」という思いに駆られている人も少なくありません。
焼肉屋は「過去への固執」なのか?
成功者が焼肉屋を開く行為は、残念ながら未来への一歩ではなく、**「過去への固執」**と捉えられることがあります。肉を焼きながら、自分の過去の栄光をなぞってしまうような切なさや不自然さが滲み出るのは、そこに「次の人生」がないからではないでしょうか。
海外に目を向けると、成功したビジネスマンが稼いだお金を慈善団体に寄付したり、アートの世界に投資したりと、異なるお金の使い道やロールモデルが存在します。もちろん日本にもそうした活動はありますが、引退後にどうするべきかという社会的な意識や考え方が十分に共有されていないのが現状です。
焼肉屋の「その向こう側」を想像する
それでも、焼肉屋を開く人を笑うべきではありません。むしろ、その選択には、不安や焦燥、そして「何かを残したい」「人と繋がりたい」「誰かにまた見てほしい」という誠実な気持ちが滲み出ていると感じるのです。それは、ある意味で日本人らしいやり方なのかもしれません。
しかし、そろそろ日本人も**「焼肉屋の向こう側」**を想像しても良い頃なのではないでしょうか。本当の意味で幕を下ろし、次の舞台へ進む、過去ではなく未来を語ることが重要です。現役を降りることや、静かにフェードアウトすることが「かっこ悪い」と思われないような社会。そんな第二の人生が自然に用意される社会であれば良いのです。
そうなければ、私たちは皆、自分の人生の終わり方を知らないまま、ずっと何かを焼き続けることになるのかもしれません。だからこそ、焼肉屋を笑ってはいけません。そこには、私たち皆の未来の形が映っているのかもしれないからです。