今日は少しゾッとするようなテーマ、**「大義名分モンスター」**についてお話しします。もしかしたら、これを読んでいるあなたの周りにも、あるいはあなた自身の中にも、このモンスターが潜んでいるかもしれません。
大義名分とは何か?その本質を探る
まず、「大義名分」とは一体何でしょうか?一言で言えば、それは**「人が行動するための正しさの言い訳」**です。
私たちの社会では、戦争、思想革命、恋愛、誰かへの献身、組織への献身、そして他人を支配すること、これら全てに「大義」が添えられます。なぜ人は大義を求めるのか。それは、人間は自分を正しい側に置かないと不安になるからです。自分が正しいことをしていると信じることで、人は行動を起こすことができます。意味がなければ、戦争すらできないように、何をするにも「意味(大義)」が必要なのです。だからこそ、大義を掲げる者の言葉には、抗いがたい力が宿っているように感じられます。
身近な例に見る大義名分モンスターの顔
では、この大義名分モンスターは具体的にどのような姿で現れるのでしょうか。いくつかの身近な例を挙げてみましょう。
- ブラック企業: 従業員に長時間労働を強いたり、残業代を払わずに働かせたり、チームのために犠牲を払えと言って休日出勤を強要したりします。
- カルト集団: 信者に対し、「あなたが現世で救われるため」「世界を変えるため」といった話を延々と聞かせ、洗脳していくことがあります。
- 政治運動: 「この活動に反対する奴は人間じゃない」といった乱暴な言葉で、反対者を排除しようとする過激な政治セクトもかつて存在しました。
- 恋愛詐欺: 「君のためを思って言っているんだよ」と優しい言葉をかけながら、相手を騙す行為も一種の洗脳と言えるでしょう。
これら全ての根底にあるのは、**「正義や愛の名を借りた支配」**です。これこそが、大義名分モンスターの大きな特徴なのです。
ジゴロに見る「目的」の魅力と危険性
少し視点を変えて、「ジゴロ」という存在を考えてみましょう。ジゴロはフランス語由来で、女性に養われている男性を指します。Wikipediaの定義には、「女にたかって生活する男」「女から巧みに援助を得る男」などとあります。
興味深いのは、このジゴロにも「大義」が必要とされる点です。もし単に「働きたくないから女性に頼っている」だけでは、女性はすぐに愛想を尽かしてしまうでしょう。しかし、たとえそれが抽象的で意味のないものであったとしても、「何か目的があるジゴロ」は非常に魅力的に見えるのです。
しかし、これがエスカレートすると、それは**「洗脳者」へと変貌**します。魅力は時に説得力へと変わり、その説得力が行き過ぎると、他者への支配となるのです。説得力と支配の境界線は常に曖昧です。
なぜ人は「騙されてしまう」のか?
では、なぜ人はこのような大義名分モンスターに騙されてしまうのでしょうか?私は、人間は単純に騙されているのではなく、**「誰か、あるいはその誰かの大義(それは国家の大義でも良い)を信じたくて信じている」**のだと考えています。
何か大きなことを達成しようとするときには、必ず苦しみが伴います。その苦しみが生まれた時、「この苦しみには意味がある」と思える方が、人間は耐えやすいのです。例えば、恋愛においても「この人に尽くすのは愛の証だ」と信じた瞬間、心はその相手に囚われてしまうことがあります。
あなたの「正しさ」が誰かを苦しめていないか?
ここで、皆さんに問いかけたいことがあります。あなたは、自分が正しいことをしているつもりで、誰かを苦しめていませんか?
会社を例にとると、非常に仕事ができる上司がいたとします。その人はプレイヤーとしては完璧で、聖人君子のように見えるかもしれません。しかし、そのような人が往々にして部下に対し、「自分はこれだけできるのだから、君もできるだろう」とハードワークを要求することがあります。そこにあるのは、**「自分は絶対正しいから、正義だから、相手もこれくらいできるはずだ」**という大義名分であり、それを使って誰かを支配してしまうのです。
もし、誰かがあなたに「君のためなんだ」と言ったとしたら、あなたの心の中に潜むモンスターが微んでいる(ほころびを見せている)のかもしれません。
大義名分モンスターは、常に「正しいこと」をして現れます。私たち自身もまた、知らず知らずのうちにこのモンスターに囚われている可能性があります。なぜなら、自分のことを客観的に見るのは難しく、また、人はどうしても自分自身を「正しい」と思い込みたいからです。それがなければ前に進めないという側面もあるでしょう。
しかし、この「正しさへの思い込み」が、時として人間社会で他人に対し迷惑をかけたり、他人を苦しめる原因となってしまうのです。
どうか、一度立ち止まって、自分の中の「大義名分モンスター」が、誰かを支配しようとしていないか、そしてあなた自身が誰かの大義名分に人生を支配されていないか、考えてみてください。