こんにちは。茂樹です。
今日は「型を身につけることは本当にそんなに大切なのか?」というテーマでお話しします。
「型」を求める日本のビジネス文化
私は普段からよくビジネス書を読みます。その理由は二つあります。ひとつは単純に興味からです。日本の企業社会は時に滑稽に見えることもあり、観察対象として面白いからです。もうひとつは、ポッドキャストやブログのネタ探しでもあります。
そんな中でよく目にするメッセージが、「個性を発揮する前に型を身につけなさい」というものです。
つまり、どんな世界でもまずは基本の作法やルール=「型」を覚えることが必要で、型を無視して勝手に振る舞えば非常識とされてしまう、という考え方です。
型の重要性とその限界
確かに、型を身につけることには意味があります。特にビジネスの世界では、必ず顧客が存在する以上、自分勝手なやり方は自己満足に終わってしまいがちです。だからこそ、最初に「型を学ぶ時期」があるのは大切だと私も思います。
しかし問題はその後です。10年、20年経っても「型」だけを守り続け、自分なりの工夫や新しいやり方を一切出さない人も少なくありません。その姿勢は伝統を守ることにはつながるかもしれませんが、時代に取り残され、結果として陳腐化してしまう危険もあるのです。
私の経験:リフォーム営業会社での「型」教育
私が「型」を徹底的に叩き込まれたのは、新卒で入社したリフォーム営業会社でした。そこでは毎朝の朝礼で、大声での挨拶やお辞儀の角度に至るまで細かく指導されました。続けているうちに「これが正しいサラリーマンの姿なのだ」と思い込むようになったのです。
確かに、そうした体育会系の挨拶は年配の方からの受けは良いかもしれません。しかし、いつの間にか「これが絶対正しい」と信じ込むようになり、自分の個性や感性が薄れてしまったのも事実です。今振り返れば、あの訓練はある種の「会社による洗脳」だったのではないか、と考えています。
日本社会における「型」のもう一つの問題
もう一つ気になるのは、日本社会が型を重視しすぎた結果、型を身につけられなかった人が排除されてしまうことです。
例えば、一般的な企業に勤めるサラリーマンは研修を通じて挨拶や名刺交換といった「型」を覚え、数年で“立派なサラリーマン”が出来上がります。しかし、フリーターや留学経験者、旅人、あるいはニートの人々はその訓練を受けていないため、「サラリーマンっぽくない」だけで非常識と見なされるのです。
その背景には、日本独特の価値観があります。
「働かざる者食うべからず」
「お金を稼いでいれば自由にしてよいが、稼げないなら皆と同じように型に従え」
こうした無言のメッセージが、社会の中に流れているのではないかと思います。
まとめ
「型」を身につけること自体は大切です。しかし、それに縛られすぎれば個性を失い、時代に取り残されてしまう危険もあります。また、型を身につけられなかった人々が「非常識」として排除される現実も、日本社会の課題の一つでしょう。
皆さんの国や職場には、こうした「型」や社会の規範は存在しますか? そして、その「型」によって自由が制限されていると感じることはあるでしょうか。