今日は「食事を奢られるときに気をつけないといけない」というテーマでお話しします。
ビジネスや学生生活のなかで、誰かにご馳走になることはよくありますよね。けれど、その背景にある意味を深く考えたことはあるでしょうか?
大学時代の失敗から学んだこと
私が初めて「奢りの意味」に直面したのは大学に入学したときでした。
入学前のアンケートに「部活動経験」を書いたところ、卓球部の先輩から熱心な勧誘を受けることに。練習見学の後は食事をご馳走になり、カラオケに連れて行ってもらう日々が続きました。
ところが、私は入学式後に別の友人と出会い、新しくできたギターサークルに入ることに決めてしまったのです。卓球部の先輩にそのことを伝えると、烈火のごとく怒られました。
「あんなに奢ったのに裏切るのか」という思いだったのでしょう。
しかし当時の私は、「奢ったのはそちらなのに、なぜ私が責められるのか」と心の中で反発していました。
後になって気づいたのは、奢りには見返りが求められる場合があるということ。先輩たちの行為は、入部させるための「投資」だったのです。
ビジネスにおける奢りの難しさ
この経験は社会に出てからも繰り返されました。新卒で入った会社を辞めた際、独立した先輩から「うちに来ないか」と誘われ、何度も食事に連れて行かれました。結局私は入社を断ったのですが、そのときも強く責められました。
奢りは「好意」であると同時に「見返りを期待した布石」である場合が多い。
だからこそ、ビジネスの世界では「これだけ接待したのに契約してくれないのか」と怒る人もいるのです。
けれど、見返りを期待した瞬間、その奢りは美しさを失い、相手にとって重荷になるのではないでしょうか。
日本とベトナムの違い
一方、ベトナムで働いていたときには、全く違う文化に触れました。
若いベトナム人の同僚が、年下でありながら食事代をすべて払ってくれたことがありました。私が「せめて自分の分は」と申し出ても、笑って断られました。
驚いたのは、その後一切「奢ったのだから…」というニュアンスを出されなかったことです。何度か同じようにご馳走になりましたが、恩着せがましい態度は一度もありませんでした。
日本人の多くが奢りを「ギブアンドテイク」と捉えがちなのに対し、彼らは自然体で気前よく振る舞う。そこに計算高さを感じなかったのです。
まとめ:奢りをどう受け止めるか
見返りを前提にした奢りは、やがて関係を重くする。
純粋な奢りは、人間関係を温かくする。
私は日本社会で「見返りつきの奢り」に何度も苦い思いをしましたが、ベトナムで経験した「無償の奢り」から、人との関係の在り方について深く考えさせられました。
皆さんの国や職場ではどうでしょうか?
「奢る・奢られる」という習慣には、どんな意味が込められていますか?