「サウナで整う」。
この言葉は、もはや現代社会の合言葉になりました。
会社員が仕事帰りにサウナへ行き、汗を流し、水風呂に入り、
そしてSNSに「整いました」と投稿する――。
それはまるで、現代人の小さな悟りの儀式のようです。
けれど、私はこの「整う」という言葉を耳にするたびに、
どこか拭えない違和感を覚えます。
なぜならサウナで“整う”とは、
近代的なストレスを、近代的な方法で解消しているだけだからです。
失敗のない疑似楽園としてのサウナ
サウナという場所は、極めて安全で秩序的な空間です。
温度も時間も決められており、順序に従って汗を流す。
最後に水風呂に入り、外気浴をして、
「はい、整いました」と言う。
そこには、自由も偶然もありません。
サウナには失敗が存在しないのです。
壊すことも、怒られることも、判断を誤ることもない。
つまり、サウナとは――
社会の中で「失敗する自由」を奪われた人々のための疑似楽園なのです。
そしてこの構造こそ、サウナが日本のビジネスマンたちに
これほどまで受け入れられている理由でしょう。
サウナは、まさに日本的企業文化の縮図なのです。
純能の儀式としてのサウナ
サウナの中では、皆がルールを守り、黙って汗をかきます。
誰も主張せず、誰も騒がない。
そして出たあとで、
「いやぁ、整いましたね」と笑い合う。
その構造は、会社の飲み会や朝礼とほとんど変わりません。
サウナは反抗ではなく、純能(従順)の儀式なのです。
彼らは癒されたように見えながら、
実際には翌日また同じ会社へ戻り、同じストレスを繰り返す。
つまりサウナは、
システムに再投入されるためのリセット装置に過ぎないのです。
ストイックな自己管理と資本主義の潤滑油
「整う」という言葉には、どこか宗教的な響きさえあります。
それを愛するのは、往々にして几帳面で、清潔で、
スケジュール通りに動くようなストイックな人々です。
彼らにとってサウナは癒しではなく、自己管理の延長線上にあります。
整うことは、再び働くための準備運動。
汗を流す行為は、罪悪感の清算。
日本社会は、ストイックであることを美徳とし、
努力を続ける者こそ正しいと信じてきました。
けれど、その「努力の信仰」は、
すでに人々を内側から蝕む信仰へと変質しています。
疲れ果てても、燃え尽きても、
「まだ頑張れる」と言い聞かせる。
サウナは、そのための一時的なリセットボタンなのです。
整っているように見えて、
実は誰よりも乱れている――
それがサウナ愛好家たちの現実なのかもしれません。
近代の病と「整う」という自己欺瞞
近代という時代は、理性と効率を信じてきました。
感情や衝動は抑えこまれ、
怒ること、泣くこと、弱音を吐くことは“未熟”とされた。
その結果、人々は「感情を発散する場」を失い、
最終的に行き着いたのがサウナです。
怒鳴る代わりに熱に耐え、
泣く代わりに汗を流し、
感情の代わりに「整った」と呟く。
それはまさに――
近代の病を、近代的な形でごまかしているだけの行為です。
私はその構図に、深い虚しさを感じます。
しかも、サウナはすでに巨大なビジネスです。
「整う」という幻想を商品化し、
疲れた会社員を癒し、再び労働へと送り出す。
サウナは、まさに資本主義の潤滑油なのです。
体だけでなく、心までもが再生産されていく。
自由は「乱れ」の中にある
整うこと。それは心地よく、安心できる。
けれど、「整い」を目的化した瞬間、
私たちは再び管理の輪の中に入ってしまうのです。
本当の自由は、整うことの中ではなく、
むしろ乱れの中にあります。
「乱れてもいい」と自分を許すこと。
それが、近代を生きる私たちが失った最初の自由です。
サウナそのものが悪いわけではありません。
気持ちのよい時間を過ごす場所として、それは素晴らしい。
けれどサウナで癒せるのは、あくまで近代的な疲労です。
近代が生み出した病までは、癒せません。
本当の癒しは、もっと曖昧で、もっと泥臭く、
もっと理不尽な場所にあります。
整おうとすることをやめたとき、
私たちはようやく――自由を取り戻すのです。