未開人よりも退化した現代人 ― 文明の「ずるさ」と幸福の競争

2025年10月15日水曜日

考えかた

t f B! P L

 いま、私たちが生きているこの時代には、どうにも拭えない違和感があります。

テクノロジーがこれほど進歩し、誰もが文明の恩恵を享受しているはずなのに、
なぜか心の奥に、ぽっかりとした空洞がある。

Instagramを開けば、美しい風景、笑顔のカップル、豪華な食事――。
画面の向こうには“幸福”が溢れているように見えます。
けれど私は思うのです。
この「キラキラした世界」ほど、殺伐としている場所はないと。


幸福を演じる装置としてのSNS

SNSがなぜ殺伐としているのか。
それは、そこが幸福の競争場になっているからです。

人々は、自分がどれだけ充実しているか、どれだけ愛され、成功しているかを、
互いに見せつけ合っています。

SNSとは、幸福を演じる装置であり、
同時に他人を嫉妬させる機械でもあるのです。

そこにあるのは癒しではなく、
他者との比較から生まれる「焦燥」、つまり心のざわめき。
私たちはいま、他人の目に映る自分の幸福度によってしか、
自分の幸せを感じ取れなくなっているのかもしれません。


未開人の正直さと人間的な温かみ

この“現代のずるさ”を理解するために、
いったん時計を巻き戻してみましょう。

数千年前、未開社会に生きた人々は、私たちよりもずっと誠実だったように思います。
彼らは、生と死、快楽と苦痛、愛と暴力――
そうした人間の根源的な営みを、ごまかさずに引き受けていたのです。

彼らは野蛮でした。けれど、その野蛮さの中には人間的な温かさがありました。
神と自然の前では誰もが平等で、
彼らは祈り、狩り、笑い、そして愛を語っていた。
そこには、現代人が失った“生の誠実さ”がありました。


文明人の「ずるさ」と生の空洞

一方、私たちは文明人です。
野蛮ではありませんが、むしろ野蛮よりもずるいのかもしれません。

現代の「ずるさ」とは――
リスクを避け、体裁を整え、快楽だけを抽出して消費する生き方です。

昔の人々が神を信じたように、
私たちはいま、アルゴリズムを信じています。
「バズる」ことが救いとなり、「いいね」が信仰の証になる。

恋愛も仕事も、人生までも、
私たちはリスクを最小化し、傷つかない程度の冒険しかしない

挑戦しているつもりでも、それはまるでゲームの中で安全に死ぬようなものです。
一見華やかに見えるその生活の裏には、
生きているという実感の欠如がある。

文明は私たちに便利さと効率を与えました。
しかし同時に、熱と覚悟を奪っていったのです。

文明とは人類の進化の記録であると同時に、
逃避の記録でもあります。

未開人は恐怖を知りながら、その先にある「生」を掴んでいました。
しかし、現代人は恐怖を避けるうちに、生そのものを感じられなくなっているのです。


「見せかけの幸せ」から降りる勇気を

では、私たちはどうすればこの空洞から抜け出せるのでしょうか。

その第一歩は、「幸せなふり」をやめることだと思います。

SNS上での演出をやめ、他人との比較から降りる。
承認欲求を完全に否定することはできません。
誰かに「いいね」と言われる嬉しさも、人間らしい感情の一つです。

けれど、他人の基準に生き続ければ、
私たちはいずれ自分を見失います。

本当の豊かさとは、他人に見せるものではなく、自分のなかで静かに育てるもの。

文明が進むほど、人は“ずるさ”を覚えます。
しかし、誠実さを忘れた文明は、やがて自らを滅ぼすでしょう。

他人と比べることをやめ、
“誰かに見せるためではない生き方”を選ぶこと。
それが、私たちがこの複雑な社会を生き抜くための、
最後の誠実さなのかもしれません。


Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

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