「虚業」という言葉を聞くと、多くの人はネガティブな印象を持つでしょう。
役に立たない、実体がない――そんなイメージです。
実際、『新明解国語辞典』にはこう書かれています。
相場のような堅実でない事業、または現物のない広告で大衆を釣り、金銭を詐取する商法。
なんとも辛辣な定義です。
けれど私は思うのです。
虚業は決して悪ではない。
むしろ、いまの時代にこそ必要なものなのではないかと。
形のない価値を扱うということ
私がベトナムで働いていた頃、老舗のフリーペーパー会社に在籍していました。
オフィスはおしゃれで、壁には写真やポスター。
編集者たちはMacを開き、原稿を直しながら談笑していました。
文化的で気取っているけれど、確かな熱を帯びた空間――
まるでひとつの「生きた雑誌」のような職場でした。
当時は企業が次々と広告を出し、
街にはカフェやスパ、レストランが溢れていました。
紙のメディアがまだ“街の呼吸”だった時代です。
しかし時代の波は早く、
スマートフォンとネット広告の台頭によって、
フリーペーパーは急速にその居場所を失っていきました。
彼らは製造業のように、
目に見えるモノを作っていたわけではありません。
それでも、そこには確かに人間の温度がありました。
言葉、デザイン、写真――手で触れられないものを通して、
人の心に残る空気を作っていた。
それが、「虚業」という仕事の本質です。
形のない価値を扱う人々。
無駄のなかでしか人間は呼吸できない
もしこの世が、すべて「実業」で埋め尽くされてしまったら、
世界はどうなるでしょうか。
効率的で、無駄がなく、目的が明確で、
数値と利益で完全に管理された社会。
それは一見、機能的で美しいようでいて、
実際には息苦しく、冷たいディストピアになるはずです。
人間は、無駄のなかでしか呼吸できません。
意味があるのか分からないことをやり、
誰の役にも立たないことに夢中になる。
その時間こそが、
心を潤し、社会をやわらかくしているのです。
虚業とは、その“無駄”を担う存在。
人間の世界に残された最後の余白なのです。
ゼロに意味と感情を足す
「ゼロを足してもゼロにしかならない」と言う人がいます。
けれど、私はそうは思いません。
ゼロとゼロを足しても、
そこに意味や感情が生まれれば、
それは確かに「1」になる。
そして、その1が積み重なって、2にも3にもなる。
虚業とは、そのように“見えないものを足して、見えるものを生み出す”仕事なのです。
効率と数字に追われ、
「何のために働いているのか」さえ見失ってしまう人が増えています。
そんな社会では、心の逃げ道が必要です。
虚業とは、不確実さを抱え、
無駄を愛し、笑われながらも人間の尊厳を守る仕事。
それは、人の心を再生させるための仕事なのです。
役立たないものを真剣に作る誇り
時代の流れの中で、
フリーペーパーが静かに衰退していくのを見るのは寂しいことでした。
けれど私は、その姿勢にこそ人間らしさを感じました。
「役に立たないものを、真剣に作る」――その行為そのものが尊い。
ハノイの支社で出会った編集者が、私にこう言いました。
「製造業には興味がない。
給料は安くても、自分のやりたいことを優先したいんです。」
その言葉に、私は深く胸を打たれました。
実業が“形”をつくるなら、
虚業はその形に意味を与える。
うさんくささを自覚しながらも、
人間の心を温める“無駄”を守ること。
それが、虚業に生きる人の誇りです。
時代が変わっても、
無駄を愛し、意味を紡ぐ人がいる限り、
人間の世界はまだ大丈夫だと、私は信じています。