今日は「空気を読む」ということについて話してみたいと思います。
日本人は昔から「空気を読む民族」と言われてきました。
相手の表情を見て、言葉にしなくても気持ちを察する。
場の空気を壊さないように、自分の言いたいことを少し抑えて相手に合わせる——こうした感覚は、日本文化の中でも最も繊細で、美しい部分だと私は思っています。
外国の方の中にも、「日本人のように空気を読めるようになりたい」と感じている人がいるでしょう。
けれど、私は最近この“空気を読む美徳”が、いつの間にか**「忖度」という言葉にすり替わってしまった**と感じています。
「空気を読む」と「忖度」の違い
もともと忖度とは、相手の気持ちを推し量るという意味でした。
しかし今では「上の立場の人の意向を勝手に想像して、誰も意見を言わない」——そんなネガティブな意味で使われています。
たとえば会社の会議。
上司の顔色をうかがいながら、「これを言っていいのか」と考えすぎて誰も手を上げない。
重たい沈黙だけが流れる。
こうした光景は日本企業では珍しくありません。
本来、空気を読むとは人間関係をスムーズにするための行為のはず。
しかし今の社会では、「波風を立てないこと」と同義になりつつあります。
つまり私たちは空気を読んでいるのではなく、空気に支配されているのです。
「恐れからの沈黙」と「優しさからの沈黙」
空気を読むという行為には、本来ポジティブな面があります。
相手が落ち込んでいるときに余計な言葉をかけず、ただ黙って隣に座る。
疲れている同僚に、いつもの冗談を控えて静かに見守る。
こうした行動は立派な「空気を読む力」です。
それは思いやりから生まれる行動であり、恐れからの忖度とはまったく違います。
忖度は「批判されたくない」「立場が危うくなるかもしれない」という恐れから生じるもの。
一方、空気を読むというのは「相手の気持ちを大切にしたい」という愛から生まれる行動です。
忖度は人を萎縮させ、空気読みは人をつなぐ
会議で上司に気を使って黙るのは忖度。
しかし、同僚が発言しづらそうなときにさりげなくフォローを入れるのは空気を読むことです。
この二つは似ているようでいて、根本的に違います。
忖度は組織を鈍らせ、人を萎縮させます。
空気を読む力は、組織を柔らかくし、人をつなげます。
私たちはその力を保身ではなく、優しさのために使うべきなのです。
恐れではなく、共感をベースにした社会へ
現代社会では「空気を読んでいるつもりで、実は忖度ばかりしている」人が多いように思います。
でも、本当の意味での空気を読むとは、相手の立場を想像し、場の雰囲気を感じながらも、必要なときにはきちんと意見を言うことです。
そういう人が一人でもその場にいると、不思議と空気が明るくなるものです。
空気を読むとは、沈黙することでも、迎合することでもありません。
相手を思い、場を整える——それが本来の「空気を読む」という営みです。
忖度は人を黙らせます。
空気読みは人をつなげます。
その違いを、私たちは忘れてはいけません。
これからの時代に必要な「読む力」
これからの社会に求められるのは、波風を立てない人ではなく、人の気持ちを感じ取れる人です。
空気を読む力を「恐れ」ではなく「優しさ」のために使える人が増えていけば、
日本社会はもっと軽やかに、そしてもっと自由になるはずです。
それでは、また次回。