今日は「努力の可視化」というテーマについて考えてみたいと思います。
最近SNSを見ていると、「セミナーに行ってきました」「この本を読みました」「勉強になりました」といった投稿を頻繁に目にします。
もちろん、それ自体に悪意はありません。けれども、そうした投稿を見るたびに、私はどこか息苦しさを感じてしまうのです。なぜ、学んだことをいちいち報告しなければならないのか。なぜ努力している証拠を、世界に向けて発信しなければならないのか。
本来、勉強というのは静かな部屋で、ひっそりと自分のために行うものです。
誰に見せる必要もありません。自分の中で理解が深まり、血となり肉となればそれで十分なはずです。
ところが現代では、学びは「発信しなければ存在しない」ものになりました。
努力をしても、発信しなければ「何もしていない人」とみなされてしまう。
この「努力の可視化」という現象こそ、現代社会の一つの病なのかもしれません。
結果よりも「努力の共有」が重視される時代
もちろん、私は努力そのものを否定しているわけではありません。
結果を出すためには努力が必要です。
しかし、どれだけ努力しても結果が伴わなければ意味がない——それが社会の現実であり、ある意味で残酷な原則です。
ところがいまの時代、この原則がどこかぼやけています。
努力を共有すること自体が目的化し、結果よりも「プロセスを褒め合う」空気があるのです。
それは優しさであると同時に、現実を薄めてしまう危うさでもあります。
「努力を見せる」ことの危うさ
私はこう言いたいんです。
「今日は何もしていません」「午後はぼーっとしていました」「昼寝していました」
そんな報告こそ、むしろ清々しくて美しいのではないか、と。
なぜなら、それは他人の目ではなく自分の感覚に正直であるからです。
努力を見せようとする投稿には、少なからず承認欲求が潜んでいます。
一方、「今日は何もしなかった」と胸を張って言える人は、誰の承認も求めていません。
自分の時間を、自分のものとして生きている。
それは、努力信仰社会に対する誠実なアンチテーゼです。
無為の価値と小さな抵抗
無為な時間——無駄な遊びや意味のない寄り道。
それらは社会的には「価値がない」とされがちですが、実際には人間を人間らしくする時間です。
本を読むよりも、散歩して空を見上げる方が思考を深めてくれることもあります。
どうでもいい雑談の中にこそ、人生の本質が顔を出すこともあります。
たとえば会社員の人が「今日は上司がいないからサボっていました」とSNSに書いたらどうでしょう。
それは資本主義的な成果主義に対する、草の根的な抵抗かもしれません。
努力を見せる社会に対して、「何もしない自由」を可視化する。
その静かな態度こそが、現代における知的な抵抗なのです。
「努力を可視化しない自由」を取り戻す
SNSの世界では、努力と生産性が常に競い合っています。
だからこそ、怠けることが一種のユーモアであり、抵抗の形になる。
努力を可視化することが悪いわけではありませんが、同時に努力を可視化しない自由も大切にしたいのです。
努力の証明書を発行しなくても、自分の誠実さを信じて生きる。
その静かな生き方にこそ、これからの時代に必要な知的な美意識があるのではないでしょうか。