今日は、現代社会に静かに蔓延しているある種の「職業」について考えてみたいと思います。
その名も――思想ゴロ。
一見、彼らは社会に対して鋭く刃を向ける批評家のように見えます。しかし実際には、反体制を装いながら、体制の金で最も安定的に生き延びている人々です。
思想ゴロとは何者か
「思想ゴロ」とは、反骨のポーズを取りつつ、その批判を商品に変える知識人のことです。
彼らは大学関係者、評論家、コメンテーター、SNSで影響力を持つ思想系インフルエンサーなど、多様な顔を持ちます。
言葉を武器にしながら、実はその言葉を市場に最適化している。
彼らの目的は「社会を変える」ことではなく、「社会批判をコンテンツ化して収益化する」ことです。
つまり、彼らはインテリヤクザ。暴力の代わりに、知性という圧力で相手を黙らせる。
かつて思想家が自らの命を賭けて社会を問うていたのに対し、現代の思想ゴロは社会を撫でて、上澄みだけをすくい取るのです。
思想ゴロの三つの手口
思想ゴロたちは、批判を「安全に売る」ために、非常に洗練されたテクニックを駆使しています。
主な三つを挙げましょう。
① 抽象語による「安全地帯」の確保
彼らの語彙は「構造」「意味」「時代」などの抽象語で満たされています。
この手の言葉は、誰も否定できず、誰も傷つかない。
「資本主義の限界」「意味の時代」「個の時代」といったスローガンを唱え、
聴衆をうっとりさせる。だが、その言葉は空中に浮いており、誰も責任を取らない。
抽象化とは、思想ゴロにとっての防具であり、同時に免罪符なのです。
② 「怒りの演出」というビジネススキル
彼らは怒っているように見せます。
しかしその怒りは、あくまで演出としての怒りです。
本当に激しく怒っていれば、企業講演など呼ばれません。
彼らの怒りは、スポンサーを刺激せず、それでいて観客に“正義感の共有”を与えるぬるい怒りです。
いわば「知的な怒り屋」。彼らは怒りを適温に調整して提供するのです。
③ 批判のブランド化
彼らは「社会を変える」という言葉を、もはやブランドロゴのように使います。
体制を批判することでフォロワーを獲得し、講演会・オンライン講座・企業研修などで高額な報酬を得る。
そして皮肉なことに、その講演料を支払うのは、まさに彼らが批判している体制側の企業なのです。
反体制を名乗りながら、体制の金で飯を食う。
この構造的矛盾こそ、思想ゴロという存在の核心です。
思想ゴロが繁栄する社会
思想ゴロがこれほどまでに繁栄する理由――それは、現代人の多くが「深く考えたい」よりも「共感したい」と願っているからです。
SNSが生み出したのは、思索の場ではなく共感の市場。
短く、強く、怒りを帯びた言葉が「いいね」を稼ぐ。
つまり、最も稼げるのは「怒りをデザインできる知識人」なのです。
思想ゴロの言葉は、まるでカフェイン入りの知的ドリンクのようなものです。
飲んだ瞬間は刺激的で、スッキリした気分になる。
しかし、その後に残るのは空虚な覚醒感だけ。
現実は何も変わらないのです。
対照的な存在──本物の思想家
本物の思想家は、思想ゴロとは真逆の場所にいます。
彼らは地味で、鈍く、売れず、時に不器用です。
彼らは信念を曲げるくらいなら講演を断る。
彼らはSNSの数字よりも、自分の思想の純度を選ぶ。
彼らは工場、学校、法廷、監獄といった「現場」で考える。
思想とは、命のリスクを引き受けてなお考える行為だからです。
プラトンの毒杯、中世の火刑、近代日本の転向――思想の歴史は、つねに命と隣り合わせでした。
いまの思想ゴロが失うものは、せいぜい再生数か講演依頼。
だからこそ、彼らの言葉には血が通っていない。
命の代わりに差し出しているのは、バズです。
思想ゴロを見抜く三つの視点
では、私たちはどうすれば「思想ゴロの言葉」に惑わされずにすむのか。
そのためのチェックポイントを挙げておきます。
誰が得をするのかを観察する。
その人に責任を取る覚悟があるかを見る。
その怒りが演出か、本物かを感じ取る。
真実は、傷を負った言葉の中にしか宿りません。
滑らかで無傷な言葉には、決して真実は宿らない。
結びに──ダイヤモンドとガラス玉
思想ゴロの言葉は、まるでよく磨かれたガラス玉のように輝きます。
しかし、それはただ光を反射しているだけで、自らは光を持たない。
本物の思想は、地中で長い年月をかけて圧力に耐え、ようやく生まれるダイヤモンドのようなものです。
目立たず、地味で、扱いづらい。けれど、その内側には本物の輝きがある。
私たちが問うべきは、光の派手さではなく、その言葉にどれほどの圧力と孤独が通っているかです。
思想ゴロの時代にあってこそ、「血の通った言葉」を選び取る目が、何よりの知性なのかもしれません。