今日は「終われない旅人:自由という名の牢獄」というテーマで、旅と自由の関係について考察してみたいと思います。
私自身、20代後半にバックパッカーとして世界を放浪していた時期があり、長い旅の魅力も、その裏側に潜む危うさも身をもって体験してきました。
ヨーロッパには昔からバックパッカー文化があり、日本でも80年代・90年代にブームがありました。近年では形を変え、東南アジアの物価の安い土地で沈没するように長期滞在するスタイルを選ぶ人も増えています。
旅は確かに魅力的です。しかし、旅が長期化するほど、別の問題が顔を出します。
旅の魅力と“目的の喪失”
長期の旅人を見ていると、自由奔放に生きているように映ります。
好きなときに移動し、好きな場所に滞在し、仕事にも縛られず、気ままに生きている。会社勤めの生活に疲れた身からすれば、羨ましく感じられる瞬間もあります。
しかし、本来旅は手段でした。
何かを学ぶため
心を癒し、再生するため
過剰な労働やストレスから距離を置くため
目的があったからこそ、旅は意味を持ちました。
ところが、旅が長期化すると、その目的が次第に曖昧になっていきます。気がつけば、
とりあえずどこかへ移動すること
=目的そのもの
になってしまうのです。こうなると、旅は「意味」ではなく「習慣」になり、やめることが怖くなっていきます。
自由という名の鎖
長く旅を続けた人が帰国をためらうのには、はっきりとした理由があります。
旅が自分のアイデンティティになってしまうと、旅をやめた瞬間に「自分ではなくなる」という感覚が生まれてしまうからです。
旅人でいる自分に慣れてしまい、そこから降りる勇気が持てなくなるのです。
旅は自由の象徴であるはずなのに、いつの間にかその旅そのものが自分を縛る鎖になります。
「終われない旅人」とは、まさにこの状態に陥った人のことです。
旅の最中には、風景も人も言葉も次々と入れ替わり、絶え間なく刺激が入ってきます。確かにそれは「生きている実感」を与えてくれます。しかし、刺激に慣れ切ってしまうと、
静けさに耐えられない
じっとしていると不安になる
日常の単調さが恐ろしく感じられる
という状態に陥ります。こうなると、旅はもはや冒険ではなく、逃避へと変質してしまいます。
外の世界を駆け回っているようで、実際には「自分という円の外周」をぐるぐる回っているだけになるのです。
思考の孤立と、止まる勇気
旅が長引くほど、人との関係は一時的なものばかりになります。
深い関係を築く前に移動してしまうので、誰とも長い信頼関係をつくれません。
その積み重ねの結果、旅人は次第に、
誰にも否定されず、誰にも助言されない世界
に閉じこもってしまいます。
これを自由と呼ぶ人もいますが、実際のところは思考の孤立です。
旅が終わらない人ほど、自分の正しさだけが反響する世界の中に入り込んでしまうのです。
本当に自由であるためには、どこかで止まる勇気が必要です。
動き続けていると、風景も人の言葉もただ通り過ぎていきます。
しかし、足を止めて初めて、世界が静かに語りかけてくるものがあります。
旅を“内面化”するということ
旅を終えることは敗北ではない、と私は考えています。
むしろそれは、旅を自分の内側に取り込むための大切なプロセスです。
すべての旅には、最終的に帰る場所が必要です。
その帰る場所は、必ずしも生まれ育った故郷である必要はありません。
心から落ち着ける場所
自分の言葉を紡げる場所
語るという行為そのもの
こうしたものが「帰る場所」に変わっていくのかもしれません。
長い旅を続けた人ほど、いつか「語る旅人」に変わる必要があります。
動くことをやめ、体験を言葉に変え、誰かに渡していくこと。
それこそが、放浪の末に辿り着く唯一の自由だと私は感じています。
旅は人を自由にします。しかし、終われない旅は人を縛ります。
その違いは、
外の世界へ逃げているのか
内面へと帰っているのか
という一点にあります。
本当の意味で旅を終わらせるためには、外を見るのをやめ、自分の内側を見つめることが必要なのだと、私は強く思っています。