今日は、私たちの生活に欠かせない存在となったYouTubeについて、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
ここ数十年のインターネットの歴史は短いものですが、人々の暮らし方やものの見方を大きく変えてきました。登場初期は、テキストがコミュニケーションの中心でした。しかし時代が進むにつれ、言葉の主役はテキストから音声へ、そして動画へと移り変わりました。
今では、かつて主流だったブログは読まれなくなり、YouTubeやTikTokが圧倒的な存在感を持つようになっています。
そして私たちは、スマートフォンの小さな画面を通して、他人の人生を眺め続けています。そこに映るのは、
誰かの暮らし
誰かの貧しさ
誰かの孤独
本来なら「情報」や「人の現実」であるはずのものが、今は娯楽として消費されているのです。
悲惨を演じる者、そしてそれを拡散するアルゴリズム
YouTubeは一見すると、誰もが発信者になれる平等な舞台のように見えます。しかし、その仕組みは驚くほど残酷です。
なぜなら、悲惨さ・転落・孤独・混乱といった感情の大きく動くコンテンツほど、アルゴリズムに優遇される構造になっているからです。
YouTubeのアルゴリズムは「感情」を計算しています。
視聴者が、
驚く
怒る
同情する
優越感を覚える
といった、強い反応を示す動画ほど上位に表示される仕組みです。
そのため、
穏やかで幸せな映像よりも、衝撃的で痛々しい映像のほうが、ずっと再生されやすい
という逆転が起きてしまいます。
こうしてYouTubeは、現代の見世物小屋になりました。
かつて人々は奇妙なものを見るためにお金を払いましたが、今はスクロールするだけで他人の痛みに触れ、クリックという拍手を送り続けています。
商品としての苦しみと、視聴者という共犯者
昔の見世物小屋との大きな違いは、
出演者が自分の意思で檻に入っているという点です。
発信者は理解しています。
「悲惨を見せれば再生される」という冷酷な真理を。
だからこそ、彼らは少しずつ演出を強め始めます。
貧困をさらす
家庭の崩壊を語る
心の弱さを晒す
生活の乱れを見せる
これらはもはや「記録」ではなく、
**視聴者が求める物語に合わせて編集された“演出された悲惨”**です。
こうして人生そのものがコンテンツ化し、「苦しみ」が商品になります。不幸であればあるほど注目され、報われていくという皮肉な構造ができあがります。
そして忘れてはならないのは、視聴者もその構造の一部だということです。
他人の苦しみを見て、
「この人よりはマシだ」と安心したり
「自分がまだ恵まれている」と感じたり
そうした心の動きのために、私たちは再生ボタンを押します。
つまり、現代のコンテンツ消費は、痛みを娯楽に変える社会構造そのものです。
視聴するという行為は中立ではありません。
再生することは、その人の苦しみを延命させ、
“悲惨を演じ続けさせる仕組み”に加担することでもあります。
「見世物」ではなく、「語り」の時代へ
私たちは今、他人の人生の落ち込みを消費する社会を、自覚なく作り上げています。
だからこそ、今の時代に本当に必要なのは、
悲惨を見世物にする文化ではなく、静かに「語る」文化
ではないかと感じています。
誰かの痛みをネタにするのではなく、
美しく生きるとは何かを語る人が必要なのです。
派手な演出はいらない
過剰なリアクションはいらない
再生数を狙った悲惨の切り売りはいらない
必要なのは、
思想の深さを言葉で残すことです。
人は必ず気づきます。
他人の転落の動画をどれだけ見ても、それでは心は満たされないということに。
そして、
美意識を持って生きることこそが、最も強く、最も深い物語
であることに。
私たちは「見世物」の時代を生きています。
しかし、その潮流に流されず、「語り」の時代を生きることこそ、表現者に求められている姿だと私は思います。