今日は「マイペース」をテーマに、テンポに振り回されがちな現代の職場で、私たちがどのように自分のリズムを守って生きられるのかを考えてみたいと思います。
まず知っておきたいのは、「マイペース」という言葉が和製英語であるという事実です。
新明解国語辞典では、
周囲に惑わされず、自分に適した速度・進度で行動すること
と定義されています。非常に中立的で穏やかな意味です。
しかし、この言葉は日本の職場という“特殊な生態系”に放り込まれた瞬間、まったく違う意味を帯びてしまいます。
職場で求められる「素早さ」というテンポ
会社という場所は、常に誰かのリズムで動いています。
上司のテンポ
会議のテンポ
雑談のテンポ
空気のテンポ
この“見えないリズム”に遅れた瞬間、人はすぐに「協調性がない」と見なされてしまいます。
日本の職場が好むのは、深い思考ではなく、
チキチキ動いて、反応が早く、先回りして動ける人。
つまり、処理速度の速い人が評価されやすいのです。
反対に、テンポに乗れない人は、まるで職場における罪人のように扱われてしまうことさえあります。
愛される「マイペース」には形がある
しかし不思議なことに、職場の中には“マイペース”でありながら、周囲から愛され、受け入れられている人も存在します。
彼らは決して奇抜でも個性派でもありません。
むしろ、
穏やかで
柔らかく
無害で
焦らない
そんな「日本的な徳」をまとったような人たちです。
彼らには、どこかぼんやりとしたオーラがあり、決して他人に勝とうとせず、競わず、悪意もありません。
誰かを分析して見下す知的な冷たさとも無縁で、ただ自然体で生きているように見えます。
このようなタイプが実現している「マイペース」とは、
自分のテンポで生きることではなく、
他人のテンポに巻き込まれないこと。
戦わず、焦らず、競わず、ただ静かに自分のペースを保つ。
その“自然さ”こそが彼らを空気から守っているのです。
ただし、このニュートラルなマイペースは、演じて身につけられるものではありません。
自分が空気からどう見えているかなど、そもそも自覚していないからこそ成立している性質だからです。
思考する人間が抱える「マイペースの難しさ」
一方で、私たちのように社会のテンポが見え、周りの動きを観察してしまう人間は、
“自然体のマイペース”を身につけるのは非常に難しいものです。
周りがせわしなく動いているのを見て、
「鬱陶しいな」「巻き込まれたくないな」と感じてしまう。
そうなると私たちはどうしても、
意識的に距離を取るマイペース
を選ぶしかありません。
ところがこの“意識的なマイペース”は、職場ではしばしば、
冷たい人
頑固な人
協調性がない人
と見なされてしまいます。
これは悪意でも反抗でもなく、ただ“自分を守るための選択”なのに、誤解されやすいのが現実です。
しかし、思考する人にとっての唯一の自由でもある
ただし、この意識的なマイペースには決定的な価値があります。
思考する人間が、自分を保つための唯一の自由であること。
他人のテンポに合わせる生活は、少しずつ私たちの呼吸を奪っていきます。
起きる時間
昼食の時間
会議のスピード
雑談のリズム
これらが他人のペースに委ねられていくと、
次第に私たちの内側から**「間」**が消えていきます。
その結果、沈黙が怖くなり、考えることが苦痛になり、
自分自身のテンポを失ってしまうのです。
自分の呼吸を取り戻す生き方としてのマイペース
マイペースとは、単に「遅い」「のんびり」という意味ではありません。
他人のテンポに流されず、自分の呼吸を守る生き方。
周りがどれほど急いでも、
どれほど騒がしくても、
どれほど空気を読めと言われても、
静かに自分の歩幅で進むこと。
そのテンポは目立たなくて構いません。
むしろ、目立たないほど良いでしょう。
なぜなら、その歩幅こそが“自分という存在”そのものだからです。
テンポの奴隷になって得る協調性は、
本当の意味での幸福ではありません。
マイペースを守る人は、沈黙できない社会の中での、
静かな反抗者です。
周りのペースではなく、自分の呼吸で生きること。
それこそが、現代の職場で私たちが取り戻すべき自由なのだと私は思います。