私たちは誰しも、心のどこかで
自分の成果や価値を認めてほしい
と思っています。
それ自体は、ごく自然な欲求です。
しかし、問題はその伝え方です。
ストレートな自慢話は、ほとんどの場合、嫌われます。
誰も、他人の成功談を一方的に聞かされたいとは思っていないからです。
そこで登場するのが、
自虐風自慢という、非常に洗練された話法です。
自虐風自慢とは何か
自虐風自慢とは、
一見すると自分を下げているように見せながら、
最終的にはしっかりと自慢に着地する話し方のことです。
たとえば、こんな言い回しです。
「私なんて全然かわいくないですよ。昔からよく褒められますけど」
「勉強できなかったんですよ。受験も寝不足で行ったら東大受かっちゃって」
「貧乏で困ってます。今年はハワイとヨーロッパに行く予定なんですけど」
「全然モテないんですよね。断るのが大変で」
表面上は謙虚に見えます。
しかし、その裏側には
「ほら、すごいでしょ?」
という視線が、はっきりと透けています。
謙虚さの仮面をかぶった自己アピール
日本社会では、
露骨な自己主張や自慢は好まれません。
だからこそ、
「謙虚さ」という安全な衣装をまといながら、
自己アピールを行う必要が生まれます。
自虐風自慢は、
謙虚であるように見せかけつつ、
承認だけはしっかり回収する、
非常に合理的な戦略です。
言い換えれば、
嫌われにくい形に加工された自己顕示欲
とも言えるでしょう。
なぜ聞いていて不快になるのか
自虐風自慢を聞くと、
なぜか胸の奥がざらっとする。
この違和感には、はっきりした理由があります。
① 聞き手の反応が強制される
自虐風自慢には、
会話の「正解」があらかじめ用意されています。
聞き手が言うべき言葉は、ほぼ一択です。
「そんなことないよ。すごいじゃん」
これ以外の反応をすると、
空気が壊れる。
つまり聞き手は、
承認役を強制されている
状態になります。
会話なのに、選択肢がない。
これが、無意識のストレスを生むのです。
② 「傷つかない弱さ」が見えてしまう
もう一つの理由は、
自虐風自慢が放つ
安全地帯の匂いです。
話し手は、弱さを見せているようで、
実際には決して傷つく場所には立っていません。
本当の弱さには、
恥や後悔、痛みが伴います。
しかし自虐風自慢は、
弱さをちらつかせながら、
必ず「価値ある自分」に着地する。
この計算高さが、
聞き手に違和感を与えるのです。
本物の自虐ギャグとの決定的な違い
一方で、
本物の自虐ギャグというものも存在します。
遅刻癖、恋愛の失敗、
仕事での大失態。
それらを笑いに変えて語れる人は、
どこか余裕があります。
自分の欠点を認め、
それを笑い飛ばす姿には、
人間的な成熟がにじみます。
そこには、
「どう見られるか」よりも
「どう受け止めているか」
が優先されています。
この違いは、決定的です。
弱さを見せることが難しい時代
ただし、現代では
本物の弱さを見せること自体が、
リスクになりつつあります。
「いじっていい人」として固定される
マウントの材料にされる
弱点を利用される
こうした経験をすると、
人は自然と防御的になります。
その結果、
痛みを伴わない弱さ
つまり、自虐風自慢のような
安全な自己開示が増えていく。
これは個人の問題というより、
承認欲求が肥大化した社会の副産物
なのかもしれません。
私たちは「余裕」を失っていないか
自虐風自慢が増えるということは、
本音で弱さを語れる場が減っている、
ということでもあります。
本当の意味での余裕とは、
自分の欠点を認め、
必要以上に飾らずにいられることです。
自分を守るための鎧が、
いつの間にか
自分自身を窮屈にしていないか。
自慢したくなる気持ちは、誰にでもあります。
ただ、その欲求を
どう処理するかにこそ、
人間としての成熟が現れるのではないでしょうか。
私たちは今も、
自分の弱さを笑い飛ばせるだけの余裕を、
どこかに残しているでしょうか。