今回は、「演技している自分に自覚的であること」をテーマに考えてみます。
きっかけは、以前ポッドキャストでも触れた、あるYouTubeショート動画でした。
その動画では、若い男性が「引きこもりニート」を演じ、カメラの前で奇妙な動きや叫び声を上げていました。ところがコメント欄には、
「下着が綺麗すぎる」
「生活感がなさすぎる」
「顔に清潔感がありすぎる」
といった、かなり鋭い指摘が並んでいました。
ここで重要なのは、彼が本当にニートかどうかではありません。
また、ニートを理解しようとして演じていたのかどうかでもありません。
本質的な問いは一つです。
彼は、自分が“演じている”ということを自覚していたのか。
私たちは皆、社会という舞台の役者である
人間は、誰しも何かを演じて生きています。
会社では「ちゃんとした社会人」を演じ、
家庭では「心配をかけない人間」を演じ、
SNSでは「共感される人格」を演じる。
社会に出て生きる以上、
役割から完全に自由な人間はいません。
だから、演じること自体は悪ではありません。
問題になるのは、
自分が演技しているという事実を忘れてしまった瞬間です。
「これが本当の自分だ」
そう思い込んだ途端、演技は仮面になります。
他人に見せるための顔を、
いつの間にか“素の自分”だと信じ込む。
この状態に陥ると、人は静かに疲弊していきます。
営業マンという「明るい役」
私自身、会社員時代の大半を営業マンとして過ごしました。
特に個人営業では、明るさは必須の演技でした。
声は大きく、テンションは高く、
会話はテンポよく、常に前向き。
営業の世界では、
「元気な人間」が一つの言語として機能します。
その一方で、
仕事を終えて家に帰ると、ほとんど喋らない。
静かに食事をし、誰とも話さず眠る。
当時の私は、
「これは本当の自分じゃない」
そんな感覚をどこかで抱えていました。
しかし、今は少し違う捉え方をしています。
あの明るさは、
社会と接続するための翻訳だったのではないか、と。
演技とは「翻訳」である
演じるという行為は、
嘘をつくことではありません。
それは、
他者と通じ合うための翻訳です。
相手の理解できる言語に、
自分を一時的に変換する行為。
問題なのは、演技そのものではなく、
演技に飲み込まれてしまうことです。
自分の中に複数のキャラクターがいることを認め、
今どれを使っているのかを把握している人。
そういう人の演技は、
たとえ不自然であっても、私は誠実だと思います。
一番危険なのは「自覚のない自然体」
本当に厄介なのは、
「自分は素でやっている」と信じ込んでいる人です。
無自覚なまま、
他人を操作するような“自然体”。
本人は嘘をついているつもりがないため、
自分を疑うこともありません。
これは、
現代のSNSに蔓延する「自然体信仰」の正体でもあります。
自然であることが善とされ、
演じていることは悪だとされる。
しかし現実には、
自然体を装った演技ほど、無防備で危険なものはない。
誠実さとは「自分を見ている視線」
誠実さとは、
演技をしないことではありません。
演技している自分を、冷静に見ていること。
それが誠実さだと、私は思います。
声のトーン、言葉の選び方、間の取り方。
すべて意識的に操作していても、
それが「伝えるための表現」であるなら問題はない。
演技を、
自分の自由意思として引き受けること。
その瞬間、演技は嘘ではなくなります。
不自然さを引き受けるという品格
演技をすると「偽物だ」と言われ、
演技をしないと「つまらない」と言われる。
そんな時代に、
唯一人間の品格を支えるのは、
自覚のある不自然さではないでしょうか。
もし、本音を追いかけすぎて疲れてしまったら、
一度、立ち止まって自分に問いかけてみてください。
「今の自分は、どんな役を演じているのか」
この問いを忘れていない限り、
その演技は、まだ誠実です。
それでは、また。