私たちは日常的に、テレビやネットのバラエティ番組を見て笑っています。
しかし、その笑いがどのような構造で成立しているのかを、立ち止まって考える機会はあまりありません。
日本のお笑い文化を注意深く観察すると、そこには単なる娯楽を超えて、
**日本社会に深く浸透した「いじめの構造」**が、ほぼ無意識のうちに組み込まれていることが見えてきます。
これは誰かを糾弾する話ではありません。
むしろ、「なぜこの形式が長く受け入れられてきたのか」を考えるための視点です。
笑いの前提として置かれる「上下」と「苦痛」
日本のバラエティにおける笑いの多くは、
誰かが恥をかく、痛みを感じる、困惑する、追い込まれる、
といった状態を前提に成立しています。
熱湯、激辛、無茶振り、公開説教、身体的特徴いじり。
それらは形式としては「お約束」ですが、構造的に見れば、
仕掛ける側
見る側
受ける側
が明確に分かれた非対称な関係です。
そこには、支配する側と支配される側、
安全圏にいる者と、笑われるために差し出される者という
暗黙の上下関係が存在します。
笑いという形を取っているだけで、
その構造自体は、非常に原始的で暴力的です。
「娯楽」は、行動様式の教材になる
この構造が問題になるのは、
それがテレビの中だけで完結しないからです。
私たちは子どもの頃から、
「笑い」を通して社会的行動を学習します。
どこまでやっていいのか
どの立場なら許されるのか
誰が笑われ役になるのか
これらは、説明されなくても身体的に覚えていきます。
その結果、
学校では、目立たない子や反論しない子がいじられる
職場では、立場の弱い人が「ネタ」として扱われる
集団では、空気を壊さないために誰かが差し出される
といった行動が、自然なものとして再生産されます。
テレビは直接いじめを指示しませんが、
いじめが成立する条件と形式を、繰り返し提示してきた側面は否定できません。
「冗談」という名の暴力
とくに厄介なのは、
この構造がパワーハラスメントの隠れ蓑として機能する点です。
職場で、
容姿をいじる
能力を笑いものにする
大勢の前で叱責する
といった行為が行われても、
「冗談だ」「愛情表現だ」「笑いにできない方が悪い」
という言葉が添えられることで、暴力性が見えにくくなります。
社会学では、こうしたものを象徴的暴力と呼びます。
物理的に殴らなくても、
笑顔で相手の尊厳を削れば、それは立派な暴力です。
しかも、加害者は
「場を和ませている」「面白くしている」
という自己認識を持ちやすく、
責任は常に「受け取れない側」に転嫁されます。
問題は「個人」ではなく「文化」
重要なのは、
これは特定の芸人や番組の問題ではない、という点です。
誰かが悪いから起きているのではなく、
**この形式が長く「許され」「求められてきた文化」**に問題があります。
痛みや屈辱を消費する笑いは、
即効性があり、分かりやすく、空気を一瞬で支配します。
だからこそ、安易に使われ、繰り返されてきました。
しかし、それは同時に、
社会全体の感覚を少しずつ鈍らせてきたとも言えます。
結びに:問い直すことからしか変化は始まらない
本来、笑いはもっと自由で、創造的で、
人を追い詰めずとも成立するものです。
誰かの痛みを前提にしない笑い。
上下関係を固定しない笑い。
安全な場所から他人を消費しない笑い。
その可能性を取り戻すためには、
まず私たち自身が、
**「なぜこれを笑ってきたのか」**を問い直す必要があります。
たとえるなら
この構造は、
甘い砂糖でコーティングされた劇薬のようなものです。
口に入れた瞬間は心地よい。
しかし、気づかないうちに、
誰かの尊厳や、社会の感覚を少しずつ蝕んでいきます。
笑いを否定する必要はありません。
ただ、その中身を確かめる視線だけは、
持ち続けていたいものです。
それが、いじめの構造を再生産しないための、
最も静かで確実な第一歩です。