現代社会では、行動には必ず「意味」が求められます。
なぜその仕事をするのか。なぜそれを選ぶのか。なぜそれに時間を使うのか。
単に「やりたいから」「楽だから」「気持ちがいいから」という理由だけでは、社会的に説明として成立しにくい空気があります。そのため、多くの行動は、キャリア、社会貢献、成長、挑戦といった「理解しやすい物語」に変換されて語られるようになります。
しかし、この構造には一つの特徴があります。それは、ストーリーが説明のためだけでなく、欲望を覆い隠す装置として機能し始めているという点です。
欲望を包み込む「自己成長」という語り
人間の根源には、単純で直接的な欲望があります。
快適でいたい。認められたい。退屈を避けたい。不安から距離を取りたい。
これらは人間として自然なものですが、現代ではそのまま表現することが難しくなっています。その結果、多くの場合、欲望は「成長」「挑戦」「自己実現」といった物語に置き換えられます。
本当はただやりたいだけの行動も、「将来のため」「人生を変える経験」として再構成されます。ここでのストーリーは、他人に説明するためだけではなく、自分自身を納得させるための装置として働きます。
その結果、失敗すら「物語の途中」として処理できるようになり、行動の責任や動機の単純さを直視しなくても済む構造が生まれます。
組織が使う「美しく加工された物語」
この構造は個人に限りません。
企業は本来、利益を最大化する存在ですが、それをそのまま語ることは少なくなっています。代わりに、社会課題の解決、未来への貢献、持続可能性といった言葉が前面に出ます。
人員削減は「改革」と呼ばれ、失敗は「挑戦」と呼ばれます。
これは嘘というよりも、理解されやすい物語への翻訳です。
国家レベルでも同様です。
資源確保や安全保障といった現実的な動機は、「正義」「歴史」「使命」といった大きな物語に置き換えられます。
物語が大きくなればなるほど、その背後にある動機は見えにくくなります。
ストーリーは「防御装置」にもなる
本来、ストーリーは理解を助けるための道具でした。
しかし現在では、批判を避け、責任を曖昧にし、動機をぼかすための防御装置としても機能しています。
ストーリーを持つことで、人は「意味のある行動」をしていると認識されやすくなります。同時に、行動の動機を深く問われにくくなります。
この構造の中では、本人すら自分の欲望を正確に認識できなくなっていきます。
欲望を欲望として認識するという態度
物語を持つこと自体が問題なのではありません。
問題になるのは、物語が欲望を完全に覆い隠してしまうことです。
自分が何を求めているのかを、装飾なしで認識すること。
それは冷酷さではなく、むしろ思考の透明性に近いものです。
物語を語らない選択、あるいは物語の背後にある欲望を自覚する姿勢は、現代社会における一つの知的態度とも言えます。
私たちは、物語を完全に捨てて生きることはできません。
しかし、物語と欲望を混同しないことは可能です。
行動の理由が本当に物語なのか、それとも欲望を包むための言葉なのか。
その問いを持ち続けること自体が、現代社会における一つの自己防衛なのかもしれません。