日本社会で生きていると、多くの人が一度は「自分の欲望をどう扱えばいいのか」という問題に直面します。
欲望を前に出すことは下品である。自分の利益より、まず他人や社会を優先するべきである。そうした空気は、明文化されてはいないものの、社会全体に静かに浸透しています。
しかし、ここで見落とされがちな重要な事実があります。日本社会は、欲望そのものを否定しているわけではありません。本当に求められているのは、「欲望を持たないこと」ではなく、「欲望を見せないこと」です。
欲望は「無害な物語」に翻訳されて初めて許される
人間が欲望を持つこと自体は、極めて自然なことです。お金を稼ぎたい。楽をしたい。美味しいものを食べたい。魅力的な異性に好かれたい。こうした欲望は、生存や快楽に直結した、極めて根源的なものです。
問題になるのは、それをどのように表現するかです。
現代の日本では、欲望はそのままでは社会に出せません。必ず「社会的に無害な物語」に変換されます。
自己成長のため。学びのため。社会貢献のため。誰かの役に立つため。
こうした言葉で包まれた欲望だけが、公共空間に存在することを許されます。言い換えれば、欲望は「脱臭」されて初めて流通できるのです。
かつては欲望はもっと露出していた
日本社会が常に欲望を隠してきたわけではありません。
かつての大衆文化には、欲望をむき出しに肯定する言葉が存在していました。たとえば、昭和期の任侠映画の世界では、「うまいものを食って、いい女を抱く」というような、極めて直接的な欲望の表現が成立していました。
そこには教訓も、社会的正当化もありません。ただ、人間の本音として存在していました。
もし現代で同じ内容を語るなら、「人生を豊かにするため」「自己実現のため」といった言葉を付け加える必要があります。そして、その瞬間、言葉はどこか嘘くさく、薄くなります。
「欲望が見えない人間」が理想化される社会
現代の日本社会では、「何を望んでいるのか分からない人間」が高く評価される傾向があります。
何に執着しているのかが見えない。何に興奮するのかが見えない。強い利害を持っているように見えない。
こうした「透明な人間」は、安全で扱いやすい存在として受け入れられます。既存の評価体系を揺るがさず、空気を乱さないからです。
しかし、人間の内部から欲望が消えることはありません。表に出せなくなった欲望は、別の形で現れます。裏側で歪んで増幅される。綺麗な物語の中に隠れる。あるいは、どこかで突然爆発する。
欲望を消しているのではなく、見えない場所に移動させているだけなのです。
「無菌化された人間」は、本当に強いのか
長い間、日本社会では「欲望が見えない人間」が成功モデルとされてきました。
しかし、不確実性が高まった現代社会では、このモデルは必ずしも強さにはなりません。空気を乱さない人間は、同時に、状況を変える力も持ちにくいからです。
欲望を語らない社会は、安全で安定しているように見えます。しかしその裏側では、「生きている実感」が徐々に薄れていきます。
私たちは何を引き受けるべきなのか
今、多くの人が感じている空虚感は、個人の問題ではなく、社会の設計そのものに関係しています。
欲望を否定する社会ではなく、欲望を偽装し続ける社会。この構造の中で、人は「安全に見える存在」にはなれても、「生きている実感」を持ちにくくなります。
重要なのは、欲望を社会にそのままぶつけることではありません。しかし同時に、欲望を完全に無かったことにする必要もありません。
綺麗な物語の裏にある本音とどう向き合うか。剥き出しの欲望をどう自分の中で引き受けるか。
それは、この社会を生き抜くための技術であると同時に、「人間として生きている」という感覚を取り戻すための作業でもあるのかもしれません。