世の中には、「成功したい」「希望を持ちたい」という人間の自然な欲求を商品にする語りが存在します。書籍、動画、セミナーなど、形はさまざまですが、それらの多くは一見すると前向きで、優しく、救いのある言葉に包まれています。
しかし、その語りにはほぼ例外なく、ある前提が埋め込まれています。それは、「あなたの人生にはもともと意味がある」、あるいは「努力すれば必ず意味のある人生になる」という考え方です。
この前提は、多くの人にとって安心材料として機能します。ところが同時に、非常に危うい構造も内包しています。
意味は最初から存在しているわけではない
私たちが生まれたこと、働いてきた時間、経験した苦労や失敗に、最初から意味が与えられている保証はありません。意味とは、多くの場合、後から解釈として付けられるものにすぎません。
それにもかかわらず、「人生に無駄なことは一つもない」「すべては成長のためにある」といった言葉は、迷いや不安の中にいる人ほど強く惹きつけられます。ここで問題になるのは、「意味があること」が前提として固定されてしまう点です。
意味があることを前提にしてしまうと、現実の複雑さや不条理を直視する余地が失われます。そして、「意味が見えない現実」を語ること自体が否定される空気が生まれます。
「意味」という概念が生む静かな排除
「人生には意味がある」という考え方の最も危険な点は、意味を見出せない人を静かに排除してしまうことにあります。
努力しても報われなかった人、自分の人生を振り返って虚しさしか残らなかった人に対して、この思想は次のように働きます。まだ気づいていないだけだ、学びが足りない、視点が低い、と。
この瞬間、問題は社会構造でも偶然でもなく、「本人の理解不足」に置き換えられます。結果として、人生の結果そのものが本人の責任に回収されます。
この構造は表面上は優しく見えますが、実際には非常に強い排除性を持っています。なぜなら、「意味がある」という前提が崩れない限り、例外はすべて個人の欠陥として処理されるからです。
「意味の提供」が成立するビジネス構造
「人生には意味がある」という前提は、ビジネスとしても極めて扱いやすい概念です。
使命を見つける、才能を解放する、本来の自分に戻る。このような言葉は、一見すると自己探求を促しているように見えます。しかし実際には、「人生の意味」という本来は他者が保証できないものを、外部から提供できるかのように見せる構造を生み出します。
ここでは、人は「意味を考える主体」から、「意味を受け取る顧客」へと変わります。そして意味は、商品として流通するものになります。
この構造は宗教的であるというより、むしろ市場構造として極めて合理的です。不安は継続し、答えは完全には与えられず、次の商品へとつながっていきます。
誠実な語りはどこから始まるのか
本当に誠実な語りとは、おそらく次の地点からしか始まりません。
人生に意味があるかどうかは分からない。努力が報われる保証もない。苦労が何かに繋がる保証もない。
この地点は冷たく感じられるかもしれません。しかし、ここからしか現実と向き合うことはできません。
意味がないかもしれない。それでも人生は続いてしまう。その現実を引き受けた上で、自分は何を選ぶのか。何を引き受けるのか。
この問いを飛ばして、いきなり使命や成功を語る言葉は、どれほど美しくても、どこかで現実を隠しています。
結論:「意味」を信じる前に、一度疑う
「人生には意味がある」と信じたくなるのは、人間として自然な感情です。問題は、その前提を疑えなくなることです。
人生に意味がない可能性を認められない語りは、人を安心させる代わりに、操作し、排除する危険性を持ちます。
自己啓発的な言葉に触れるときに重要なのは、その言葉がどれだけ前向きかではなく、その言葉がどれだけ現実の不確実さを引き受けているかです。
人生に意味がないかもしれない。その前提に立てること。それは絶望ではなく、むしろ他者にも自分にも暴力を向けないための、最低限の知性なのかもしれません。