職場では日常的に「あの人は仕事ができる」「あの人はできない」という言葉が使われています。しかし、この言葉ほど曖昧で、同時に強い力を持つ評価軸も珍しいものです。
とくにホワイトカラーの仕事では、業務の大半が数値化できません。企画、調整、判断、関係構築、空気の読み取り。どれも明確な点数にはできません。それにもかかわらず、組織の中では確実に評価の差が生まれます。
この「数値化できない評価」は、どこから生まれているのでしょうか。そして、なぜ現代社会では、それを待てなくなったのでしょうか。
評価とは「暗黙知の合成物」である
営業職のように売上が明確に出る例外を除けば、多くの仕事の評価は、無数の小さな観察の積み重ねから形成されます。
誰が話を整理するのか。
誰がトラブルを止めるのか。
誰が責任を引き受けるのか。
誰が判断を先送りにしないのか。
これらは評価シートには書かれません。しかし、周囲の人間は確実に見ています。
上司だけではありません。同僚も、部下も、取引先も含めた「観察の集合」が、言語化されない評判を形成します。こうして作られる評価は、完全ではないにしても、意外なほど大きく外れることはありません。
つまり、「仕事ができる」という評価は、単一の指標ではなく、社会的な観察の合成結果なのです。
かつては「評価を待つこと」が成立していた
高度経済成長期から安定成長期にかけて、日本社会では「評価は遅れてやってくるもの」として機能していました。
若い時期に正当に評価されなくても、年功序列と長期雇用が「いずれ回収される」という前提を支えていました。この前提があったからこそ、「仕事ができても、それを誇示しない」ことが美徳として成立していました。
評価は、取りに行くものではなく、積み上げの結果として与えられるものだったのです。
「評価を待てない社会」の誕生
しかし、バブル崩壊以降、状況は根本的に変わりました。
終身雇用の揺らぎ、成果主義の導入、自己責任論の浸透。これらはすべて、「評価を将来に持ち越す」という仕組みを弱体化させました。
評価は、待つものではなく、取りに行くものになりました。
この変化は、単なる働き方の変化ではありません。人間の振る舞いそのものを変えました。
「演出」は個人の性格ではなく、生存戦略である
現代の職場では、「周囲が気づいてくれるのを待つ」という姿勢はリスクになります。
その結果、「仕事ができる自分」を演出する行動が増えました。専門用語を多用する。難しい顔で会議に出る。過剰に分厚い資料を作る。常に忙しそうに振る舞う。
これらは必ずしも悪意ではありません。むしろ合理的な適応です。
評価が保証されない社会では、「評価されているように見える状態」を先に作らなければ、生存確率が下がります。謙虚さは美徳ではなく、戦略的リスクになりました。
歪んでいく評価構造
この結果、現代のホワイトカラー社会では、「評価を先取りできる人」が短期的に有利になります。
自己主張が強い人、存在感を演出できる人、評価を言語化できる人。これらの特性は、本来の仕事能力とは必ずしも一致しません。
しかし、短期的な組織環境では、可視化された能力の方が評価されやすくなります。
その結果、本来なら時間をかけて評価されるはずの人ほど、不利になるという逆転現象が生まれます。評価されない時間に耐えられる人間ほど、評価されにくいという構造です。
問題は個人ではなく、社会設計にある
「仕事ができる人を演じる人」が増えているのは、個人の倫理の問題ではありません。
社会の評価システムそのものが、演出を合理的選択にしてしまった結果です。
評価が遅れても回収される社会では、演出は不要でした。評価が即時化された社会では、演出は必須になります。
つまり、問題は人間の変質ではなく、評価の時間構造の変化にあります。
結論:「仕事ができる」は能力ではなく、環境との関係で決まる
「仕事ができる」という言葉は、絶対的な能力を示しているわけではありません。
それは、その社会がどのように評価を与え、どの程度「待つこと」を許容するかによって決まります。
そして現代社会は、評価を待つことを極端に許さない社会へと変わりました。
私たちは今、「仕事ができる」という言葉の裏にある構造そのものを、もう一度疑う段階に来ているのかもしれません。