なぜ私たちは「サラリーマンの苦労」を美談にしてしまうのか ― それは道徳ではなく、生き延びるための心理装置である

2026年2月25日水曜日

サラリーマン

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多くの人は、子どもの頃から「将来はサラリーマンになりたい」と本気で思っていたわけではありません。野球選手、音楽家、作家、研究者。何かしら別の夢を持っていた人の方が多いはずです。

しかし現実には、「自分で選んだ」というより、「気づけばそこに配置されていた」という感覚で会社に入った人が大半です。

それでも、私たちは自分の人生を「無意味だった」とは思いたくありません。ここから、「サラリーマンの苦労」を神話化する心理が始まります。


人は、自分の過去を否定できない

人間は、自分が歩いてきた道に意味を見出そうとします。

もしそれをしなければ、「自分の人生は偶然の積み重ねだった」「別の人生の方が幸せだったかもしれない」という、耐えがたい問いに直面することになります。

だからこそ、人は過去に物語を与えます。

若い頃の苦労は必要だった。
サラリーマン経験は人格を鍛えた。
我慢したから今の自分がある。

これらは必ずしも嘘ではありません。しかし同時に、「自分を守るための物語」でもあります。


苦労は「意味があったこと」に再編集される

仮に、それが消去法の選択だったとしても、人は後から意味を付け加えます。

この苦労には価値があった。
この我慢には意味があった。
この経験は自分を成長させた。

もしこの物語が崩れてしまえば、「なぜあの時間を使ったのか」という問いが、むき出しのまま残ります。

その問いは、多くの場合、あまりにも重すぎます。だから人は、自分の過去を肯定できる形に再編集します。


適応能力が「人間としての価値」にすり替わる

日本社会では、さらに一歩進んだ構造が存在します。

本来は単なる環境適応能力であるはずのものが、「人間としての優劣」に変換されます。

空気を読める。
人間関係を円滑に回せる。
組織に溶け込める。

これらは、会社という環境で生きるためのスキルです。しかし、それが「人格の成熟度」や「人間としての優秀さ」として扱われ始めます。

その結果、組織に適応できなかった人は、「環境が合わなかった人」ではなく、「努力不足の人」や「未熟な人」として扱われます。


社内で通用する能力は、必ずしも外では通用しない

サラリーマンとして磨かれる能力の多くは、会社という閉じた環境の中でのみ強く機能します。

社内調整。
根回し。
上司の心理の読み取り。

これらは確かに高度な能力です。しかし、それは多くの場合、その組織という装置の中でのみ価値を持つ通貨です。

もしそれを「普遍的な社会能力」だと信じられなければ、長年積み上げてきた努力の意味が揺らぎます。だからこそ、人は「サラリーマン能力=社会能力」という物語を維持し続けます。


苦労の美談化は、個人の弱さではない

ここで重要なのは、これを「自己欺瞞」として単純に否定することではありません。

これは、人間が精神的に生き延びるための、ごく自然な反応です。

問題になるのは、この物語が唯一の正解になったときです。


日本社会が抱えている本当の問題

今の日本社会の歪みは、「組織に適応できる人だけが正しい」という単一の物語しか持てなくなっている点にあります。

適応できる人は立派。
適応できない人は努力不足。

この単純な構図が、社会の想像力を極端に狭めています。


結論:自分の物語を、時々外から見てみる

サラリーマンという生き方が無意味なわけではありません。そこには確かに学びも、成長も、価値も存在します。

しかし同時に、それが普遍的な正解ではないという視点も必要です。

自分の苦労を美談として語ることは、自分を守るための知恵でもあります。しかし、その物語が他者を排除していないか。自分の可能性を閉じていないか。

時には、自分が信じてきた物語を、一歩引いて眺めてみること。それが、この社会の中で、思考を失わずに生きるための最低限の防御なのかもしれません。


Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

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