「継続は力なり」。
この言葉は、疑う余地のない美徳として、長年語られてきました。ビジネス、自己啓発、教育、スポーツ。どの分野でも、「才能より継続」「結果より継続」といった言葉が当然の前提として語られます。
しかし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。現代社会において、「継続」という言葉は、あまりにも絶対的な価値になりすぎてはいないでしょうか。
問題は、継続が価値を持つことではありません。問題は、継続そのものが「無条件の正義」に変わってしまったことです。
手段だったはずの「継続」が、いつの間にか目的になった
本来、継続とは目標を達成するための手段の一つに過ぎません。続けることによって技術が磨かれ、経験が蓄積され、結果につながる。その順序が本来の姿です。
しかし現代社会では、この順序が逆転しています。
何を達成したかではなく、何年続けたか。
何を生み出したかではなく、毎日やっているか。
こうして、継続は成果を生む手段ではなく、「続けていること自体が価値」という状態に変わりました。
これは偶然ではありません。継続という指標は、誰にでも分かりやすく、評価しやすく、管理しやすいからです。組織やコミュニティにとって、極めて都合の良い価値基準なのです。
「継続教」が称賛するのは、挑戦ではなく安定
継続が絶対価値になると、社会が評価する人間像も変わります。
評価されるのは、大胆な挑戦をする人ではありません。急激な変化を起こす人でもありません。
評価されるのは、波風を立てない人です。
リスクを取らない生き方は、「継続している」という理由で正当化されます。変化を拒むことも、「続けている」という言葉で肯定されます。
その結果、何かを大きく成し遂げた人よりも、「大きな失敗をしなかった人」の方が安全に評価されるという構造が生まれます。
なぜ「一発屋」は過小評価されるのか
この価値観は、「一発屋」という言葉に象徴的に表れています。
一度でも大きな成果を出すことは、本来、非常に困難なことです。多くの人は、一生の中で一度も大きな当たりを出せません。
それにもかかわらず、「継続教」の価値観の中では、「長く続かなかった」という理由だけで、その成果は過小評価されます。
逆に、中身が伴っていなくても、長く続けているという事実だけで、一定の評価が与えられる場合があります。
「やめる」という選択は、本当に敗北なのか
現代社会では、何かを途中でやめることは、忍耐力の欠如や根性の不足として語られがちです。
しかし、それは別の見方もできます。
合わないものをやめること。面白くないことを続けないこと。自分の感覚を無視しないこと。
これは、敗北ではなく、自分の判断を信頼する行為でもあります。
継続という思想が持つ、もう一つの危険性
「継続できる人が偉い」という価値観は、裏返せば、「続けられなかった人の人生を中身ごと否定する」という思想にもつながります。
もちろん、継続が成果を生むことはあります。しかし、継続そのものを無条件に正しいものとして扱うと、「何を継続しているのか」という本質的な問いが消えます。
今、本当に問うべきこと
重要なのは、「続けているかどうか」ではありません。
それが、本当に自分が成し遂げたいことに向かっているのか。
それとも、波風を立てないための振る舞いになっているのか。
この違いです。
結論:継続は美徳ではなく、単なる道具に戻すべきである
継続は、否定されるべきものではありません。しかし、信仰されるべきものでもありません。
継続は、あくまで道具です。道具は、目的のために使うものです。
もし継続そのものが目的になっているなら、その時点で、一度立ち止まって考える価値があります。
私たちは、何を続けているのか。そして、なぜ続けているのか。
この問いを持てるかどうか。それが、「継続」という言葉に飲み込まれないための、最初の一歩なのかもしれません。