「継続は正義」という思想は、本当に正しいのか ― 私たちは「継続」という宗教を信仰していないか

2026年2月24日火曜日

考えかた

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「継続は力なり」。

この言葉は、疑う余地のない美徳として、長年語られてきました。ビジネス、自己啓発、教育、スポーツ。どの分野でも、「才能より継続」「結果より継続」といった言葉が当然の前提として語られます。

しかし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。現代社会において、「継続」という言葉は、あまりにも絶対的な価値になりすぎてはいないでしょうか。

問題は、継続が価値を持つことではありません。問題は、継続そのものが「無条件の正義」に変わってしまったことです。


手段だったはずの「継続」が、いつの間にか目的になった

本来、継続とは目標を達成するための手段の一つに過ぎません。続けることによって技術が磨かれ、経験が蓄積され、結果につながる。その順序が本来の姿です。

しかし現代社会では、この順序が逆転しています。

何を達成したかではなく、何年続けたか。
何を生み出したかではなく、毎日やっているか。

こうして、継続は成果を生む手段ではなく、「続けていること自体が価値」という状態に変わりました。

これは偶然ではありません。継続という指標は、誰にでも分かりやすく、評価しやすく、管理しやすいからです。組織やコミュニティにとって、極めて都合の良い価値基準なのです。


「継続教」が称賛するのは、挑戦ではなく安定

継続が絶対価値になると、社会が評価する人間像も変わります。

評価されるのは、大胆な挑戦をする人ではありません。急激な変化を起こす人でもありません。

評価されるのは、波風を立てない人です。

リスクを取らない生き方は、「継続している」という理由で正当化されます。変化を拒むことも、「続けている」という言葉で肯定されます。

その結果、何かを大きく成し遂げた人よりも、「大きな失敗をしなかった人」の方が安全に評価されるという構造が生まれます。


なぜ「一発屋」は過小評価されるのか

この価値観は、「一発屋」という言葉に象徴的に表れています。

一度でも大きな成果を出すことは、本来、非常に困難なことです。多くの人は、一生の中で一度も大きな当たりを出せません。

それにもかかわらず、「継続教」の価値観の中では、「長く続かなかった」という理由だけで、その成果は過小評価されます。

逆に、中身が伴っていなくても、長く続けているという事実だけで、一定の評価が与えられる場合があります。


「やめる」という選択は、本当に敗北なのか

現代社会では、何かを途中でやめることは、忍耐力の欠如や根性の不足として語られがちです。

しかし、それは別の見方もできます。

合わないものをやめること。面白くないことを続けないこと。自分の感覚を無視しないこと。

これは、敗北ではなく、自分の判断を信頼する行為でもあります。


継続という思想が持つ、もう一つの危険性

「継続できる人が偉い」という価値観は、裏返せば、「続けられなかった人の人生を中身ごと否定する」という思想にもつながります。

もちろん、継続が成果を生むことはあります。しかし、継続そのものを無条件に正しいものとして扱うと、「何を継続しているのか」という本質的な問いが消えます。


今、本当に問うべきこと

重要なのは、「続けているかどうか」ではありません。

それが、本当に自分が成し遂げたいことに向かっているのか。
それとも、波風を立てないための振る舞いになっているのか。

この違いです。


結論:継続は美徳ではなく、単なる道具に戻すべきである

継続は、否定されるべきものではありません。しかし、信仰されるべきものでもありません。

継続は、あくまで道具です。道具は、目的のために使うものです。

もし継続そのものが目的になっているなら、その時点で、一度立ち止まって考える価値があります。

私たちは、何を続けているのか。そして、なぜ続けているのか。

この問いを持てるかどうか。それが、「継続」という言葉に飲み込まれないための、最初の一歩なのかもしれません。


Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

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