「意識低い系」という言葉があります。
競争を好まない。
出世を目指さない。
無理をしない。
ほどほどに生きる。
そんな人たちを指して使われることが多い言葉です。
一見すると、この言葉にはどこか親しみやすさがあります。
実際、
「私は意識低い系なんで」
と自虐的に使う人も少なくありません。
しかし私は、この言葉には大きな問題があると思っています。
それは、
人間の生き方に勝手な順位をつけてしまう
ということです。
「低い」という言葉は何を意味しているのか
少し考えてみてください。
なぜ「意識低い系」なのでしょうか。
もし、
のんびり系
脱競争系
定住系
日常重視系
という言葉だったらどうでしょう。
受ける印象はかなり違うはずです。
ところが実際には、
「低い」
という言葉が選ばれています。
つまりこの言葉は最初から、
意識が高い方が望ましい
という前提を内蔵しているのです。
本人が自虐的に使おうが、
社会が好意的に使おうが、
言葉の構造そのものは変わりません。
意識高い系が上。
意識低い系が下。
まず順位があり、
その後に人間が配置される。
そんな構造になっています。
生き方は本当に上下で測れるのか
しかし本来、
人間の生き方はそんな単純なものでしょうか。
出世を目指す人もいる。
地方で静かに暮らしたい人もいる。
起業したい人もいる。
毎日定時で帰りたい人もいる。
世界を旅したい人もいる。
家族との時間を優先したい人もいる。
これらは本来、
上下の関係ではありません。
違いでしかありません。
ところが現代社会では、
競争する人。
成長する人。
挑戦する人。
稼ぐ人。
そうした生き方が「標準モデル」になっています。
そしてその標準から外れた瞬間、
意識低い系というラベルが貼られる。
これはかなり不思議なことです。
言葉は現実を作り変える
私たちは言葉を使っているつもりですが、
実際には言葉によって世界の見え方を作られています。
例えば、
会社員を辞めて旅を続ける人がいるとします。
ある人は、
「自由人」
と言います。
ある人は、
「放浪者」
と言います。
ある人は、
「無責任な人」
と言います。
同じ人物であっても、
使う言葉によって印象は大きく変わります。
意識低い系という言葉も同じです。
本来は多様な人生の一つでしかないものが、
低い
という評価語によって意味付けされてしまうのです。
かつては別の言葉が存在した
昔の日本には、
今とは違う言葉がありました。
例えば、
風天(ふうてん)
という言葉です。
定職を持たず、
各地を渡り歩きながら生きる人々。
映画『男はつらいよ』の寅さんなどが代表例でしょう。
もちろん現実には苦労もあります。
しかしそこには、
「高い」
「低い」
という評価軸はありません。
ただ、
そういう生き方をする人がいる
という認識があるだけです。
現代の言葉は、
こうした曖昧さや豊かさを失ってしまったように思います。
「意識低い系」は現実を無害化する
さらに問題なのは、
この言葉が現実の重みを消してしまうことです。
例えば、
責任から逃げている人がいる。
努力を放棄している人がいる。
逆に、
過剰な競争から距離を取っている人がいる。
本来これらは全く違う話です。
しかし意識低い系という言葉を使うと、
全部まとめて一つのキャラクターになります。
すると現実の複雑さが消えます。
問題も消えます。
事情も消えます。
ただ、
「ああ、意識低い系なんですね」
で終わってしまう。
これは便利ですが、
同時に危険でもあります。
私たちは分類が好きすぎる
結局のところ、
人間は分類が好きです。
意識高い系。
意識低い系。
陽キャ。
陰キャ。
勝ち組。
負け組。
こうしたラベルを貼ることで、
複雑な人間を簡単に理解した気分になります。
しかし当然ながら、
現実の人間はもっと複雑です。
向上心がありながら怠惰な人もいる。
競争嫌いなのに仕事ができる人もいる。
出世欲がないのに結果を出す人もいる。
人生はそんな単純な分類に収まりません。
言葉を疑うことから始める
私は、
意識低い系という言葉を禁止すべきだ
と言いたいわけではありません。
ただ、
その言葉が何を前提にしているのか
を考える必要はあると思います。
なぜ高いと低いなのか。
誰がその基準を決めたのか。
そもそも人間の生き方に順位を付ける必要があるのか。
そうした問いを持つことです。
現代社会は便利な言葉で溢れています。
しかし便利な言葉ほど、
私たちの思考を止めてしまうことがあります。
意識低い系という言葉もまた、
人間を理解するための言葉であると同時に、
人間を見えなくしてしまう言葉なのかもしれません。