最近、Metaの大規模なリストラのニュースを見ました。
かなりの人数が対象になっており、もちろん当事者にとっては大変なことだと思います。
ただ、私はそのニュースを見ながら、少し別のことも考えていました。
Metaという会社、そしてFacebookというサービスは、少しずつ時代の中心から外れ始めているのではないか。
もちろん、Metaがすぐに駄目になるという話ではありません。
Instagramは依然として巨大です。
WhatsAppもあります。
広告事業も強いです。
それでもなお、Facebookそのものにはどこか「一時代前の空気」が漂い始めています。
私は、その理由は単なる業績や機能の問題ではなく、時代が求める「人格」が変わったからではないかと思っています。
Facebookは「ちゃんとしている人」のSNSだった
Facebookが勢いを持っていた頃、その中心にあったのは実名文化でした。
名前がある。
勤務先がある。
学歴がある。
家族がいる。
友人がいる。
旅行に行く。
仕事について語る。
結婚を報告する。
昇進を報告する。
起業を報告する。
つまりFacebookは、社会的にきちんと生きている自分を見せる場所でした。
言い換えれば、
「ちゃんとしている人格」
が強いSNSだったのです。
特に2010年代前半くらいまでは、この空気は時代全体ともかなり噛み合っていました。
自己実現。
人脈。
キャリア。
グローバル。
意識高い系。
充実した私生活。
仕事もプライベートも順調で、前向きに人生を進んでいる。
そういう人物像が一つの理想として強かった時代です。
Facebookは、その人格を最も見せやすい場所の一つでした。
Facebookは「他人の人生の展示会」になっていった
しかし、この空間は徐々に疲れるものにもなっていきました。
Facebookを開くと、昔の同級生が出世しています。
誰かが結婚しています。
誰かが海外旅行に行っています。
綺麗なホテルに泊まっています。
美味しそうな料理を食べています。
会社員を辞めて起業した人もいます。
新しい仕事を始めた人もいます。
つまり延々と、
「他人のうまくいっている人生」
を見せられることになります。
しかも実名です。
匿名の誰かではありません。
昔の同級生だったり、元同僚だったり、知人だったりします。
比較しないようにしようと思っても、どうしても比較してしまいます。
自分はまだ課長なのに、あいつは部長になった。
自分は独身なのに、あいつは結婚して子供がいる。
自分は仕事に疲れているのに、あの人は海外旅行を楽しんでいる。
そうしたものを見続ける空間は、だんだん苦しくなってきます。
Facebookはいつの間にか、
他人の人生の展示会場
のような場所になってしまったのではないでしょうか。
人々は「ちゃんとしていなくてもいい場所」を求め始めた
その反動として、人々はもっと軽い場所へ移っていったように思います。
そこで象徴的なのがTikTokです。
短い。
刺激が強い。
すぐ終わる。
意味が薄い。
深く考えなくてもいい。
場合によっては、かなり馬鹿馬鹿しい。
しかし、そこに心地よさがあります。
TikTokでは、立派な経歴を見せる必要はありません。
人生が充実していることを証明する必要もありません。
肩書も学歴も、それほど重要ではありません。
むしろ、
面白い。
変だ。
驚く。
笑える。
刺激がある。
その方が強い。
これはかなり大きな変化です。
Facebookの時代には、
「ちゃんとしている人格」
が強かった。
しかしTikTok的な時代では、
「刺激的な人格」
の方が強くなっています。
つまり、単にSNSの流行が変わったのではありません。
社会が好む人格モデルそのものが変わったのです。
Facebookが古く見えるのは、機能のせいだけではない
Facebookには今でも多くの機能があります。
グループもあります。
イベントもあります。
動画もあります。
マーケットプレイスもあります。
しかし、それでも古く見える。
なぜでしょうか。
私は、機能を足せば解決する問題ではないと思っています。
Facebookの根本には、
「実名で社会的な自分を提示する」
という思想があります。
それ自体が一つの時代精神だったわけです。
ところが今の人々は、必ずしもそこに魅力を感じなくなっています。
社会的な自分を見せることに疲れている人もいます。
いつも「ちゃんとしている人」でいることにも疲れています。
キャリアを語ることにも、自己実現を語ることにも、少し食傷気味になっています。
だからFacebookは、技術的に古いというより、
人格モデルが古く見える
のではないでしょうか。
Metaは「次の人格」を探しているように見える
Metaは当然、この変化に気づいているはずです。
だからいろいろな方向へ進んできました。
Instagram。
リール。
Threads。
メタバース。
VR。
AI。
ほとんどすべての大きな潮流に触れています。
これは企業として当然の行動です。
しかし逆に言えば、
次の時代にどんな人格が中心になるのかを、まだ掴み切れていない
ようにも見えます。
TikTokは非常に分かりやすいです。
短く、強く、刺激的。
Instagramにも独特の人格があります。
視覚的で、洗練されていて、生活感まで含めて演出する人格です。
YouTubeにもあります。
分かりやすく、テンポがよく、キャラクター性が強い人格です。
そしてFacebookには、
ちゃんとしている。
実名である。
社会的である。
経歴や人間関係が見える。
という人格があります。
問題は、その人格が今の空気に少し合わなくなってきたことです。
「メディアは人格である」
昔、マーシャル・マクルーハンは、
「メディアはメッセージである」
と言いました。
私は今のSNS時代では、さらに一歩進めて、
「メディアは人格である」
と考えてもいいのではないかと思っています。
FacebookにはFacebook的人格があります。
TikTokにはTikTok人格があります。
YouTubeにはYouTube人格があります。
noteにはnote人格があります。
そして人間は、その場所に長くいるほど、その空間に適応していきます。
Facebookでは、社会的にちゃんとした自分を出すようになります。
TikTokでは、短く強く刺激的になります。
YouTubeでは、説明がうまくなり、リアクションが大きくなります。
noteでは、少し繊細で、少し内省的で、少し知的な語り口になっていきます。
つまりSNSというものは、単なる情報伝達の道具ではありません。
人間の人格を少しずつ作り変える装置でもあるのです。
SNSは人格形成装置である
恐ろしいのは、本人に自覚がないことです。
人は、
「自分の意思で発信している」
と思っています。
しかし実際には、
アルゴリズム。
いいね。
再生回数。
コメント。
フォロワー数。
周囲の人気発信者。
プラットフォーム独特の文化。
こうしたものを毎日のように浴びています。
そして無意識に学習します。
「こういう自分の方が評価される」
「こういう話し方の方が伸びる」
「こういう人格の方がこの場所では生きやすい」
そうして少しずつ、その場所に適応していきます。
これは会社組織に長くいると、その会社の文化に染まっていくのと少し似ています。
SNSもまた、一種の組織文化を持っているわけです。
Facebookの問題は「古いSNS」になったことではない
Facebookが時代に取り残され始めた理由は、
単に若者が使わなくなったからでも、
新しいアプリが登場したからでも、
UIが古いからでもないと思います。
もっと深いところで、
Facebookが象徴していた人格そのものが、一つ前の時代の人格になった
のではないでしょうか。
ちゃんとしている。
社会的に成功している。
人脈がある。
仕事も生活も充実している。
そうした人物像に、多くの人が以前ほど憧れなくなった。
あるいは、憧れていたとしても、それを毎日見せ合うことに疲れた。
そしてもっと軽くて、もっと馬鹿馬鹿しくて、もっと一瞬で消費できる場所へ移っていった。
Facebookの衰えを考えるとき、私はそこに単なるSNSの世代交代ではなく、人間が望む人格の変化を感じます。
次に求められる人格は何なのか
これから先、どんなSNSが強くなるのか。
その答えを考えるとき、機能だけを見ても足りないのかもしれません。
どんな動画が作れるか。
どんなAIが使えるか。
どんな新機能があるか。
もちろんそれも重要です。
しかし、もっと大事なのは、
そのプラットフォームでは、どんな人間でいることが心地いいのか
ということです。
人は情報だけを求めてSNSへ行くわけではありません。
その空間の中で、ある人格を演じ、ある人格へ適応し、ある人格として評価されます。
だからプラットフォームの覇権争いとは、
ある意味では、
「次の時代の標準人格」をめぐる争い
なのかもしれません。
Facebookはかつて、その中心にいました。
しかし今、その場所から少しずつ外れ始めています。
Facebookが時代に取り残されつつあるように見えるのは、技術の問題だけではありません。
時代の人格が変わってしまったからです。