最近、インターネット上の個人発信を見ていて、強く感じることがあります。
それは、人間はメディアに合わせて人格を変えていくのではないか、ということです。
メディア論には、マーシャル・マクルーハンの有名な言葉があります。
「メディアはメッセージである」
簡単に言えば、何を伝えるかだけではなく、どの媒体を使って伝えるかということ自体が、人間や社会に大きな影響を与えるという考え方です。
私はこの考え方は非常に重要だと思っています。
ただ、現代ではさらに一歩進んでいるのではないでしょうか。
今はむしろ、
「メディアは人格である」
と言ってもいいように思います。
YouTubeには「YouTube人格」がある
例えばYouTubeです。
YouTubeで人気のある発信者を見ていると、ある程度共通する特徴があります。
話のテンポが速い。
説明が分かりやすい。
リアクションが大きい。
キャラクターがはっきりしている。
そして何よりも、視聴者を退屈させないことを強く意識しています。
これは当然です。
動画を途中で離脱されたら、再生時間は伸びません。
反応が薄ければ、アルゴリズムにも評価されにくいでしょう。
すると発信者は少しずつ学習します。
「この話し方の方が見てもらえる」
「ここでリアクションを大きくした方が反応がいい」
「前置きを短くした方が離脱されない」
最初は単なる表現上の工夫だったものが、長く続けているうちに、その人自身の話し方や振る舞いになっていきます。
つまり、YouTubeに適した人格へ少しずつ変わっていくわけです。
これは本人が悪いという話ではありません。
どんな人間でも、長く同じ環境にいれば、その環境に適応します。
YouTubeもまた一つの環境なのです。
TikTokはさらに人格を圧縮する
TikTokになると、もっと極端です。
短い時間で判断されます。
一瞬で興味を持ってもらわなければいけません。
刺激が弱ければ、すぐに次の動画へ移られてしまいます。
すると当然、発信も、
短く、
強く、
分かりやすく、
刺激的に、
という方向へ向かいます。
微妙なニュアンス。
長い前置き。
曖昧な結論。
複雑な話。
そうしたものは、構造上どうしても不利になります。
そして恐ろしいのは、単にコンテンツだけが短くなるのではなく、人間側も短く、強く、断定的になっていくことです。
メディアの形式に合わせて、思考や感情の出し方まで変わっていきます。
プラットフォームは、情報の載せ物ではありません。
人間の表現そのものを作り変える型でもあるのです。
noteには「note人格」がある
私は最近、日本のnoteというプラットフォームを見ていても、独特の人格があると感じます。
noteは、ブログとSNSの中間のような場所です。
自己啓発、副業、働き方、人生論、キャリア、自分らしさ。
そうしたテーマが非常に強い文化圏です。
そして長く読んでいると、ある共通した空気を感じます。
少し繊細です。
少し知的です。
自己分析が好きです。
感度が高そうです。
そして何より、
「ちゃんとしている感じ」
があります。
もちろん、全員がそうだという話ではありません。
ただ、タイトルの付け方、改行の仕方、自分の人生の語り方などを見ていると、似た型が繰り返し現れます。
例えば、
「昔は苦労していました」
「自分らしく生きられませんでした」
「でも、あることをきっかけに変わりました」
「今は自由に生きています」
という物語です。
こうした形式が反応を得やすければ、人は無意識にそれを学びます。
この書き方の方が読まれる。
この人格の方が共感される。
この語り口の方が「いいね」が付く。
すると、最初は記事だけを調整していたつもりが、少しずつ人格そのものがその場に適応していきます。
noteで受け入れられやすい人間になっていくわけです。
人は「自分の意思で発信している」と思っている
ここが非常に現代的だと思います。
本人は、自分の意思で発信しているつもりです。
好きなことを書いている。
自分の考えを話している。
自分らしく表現している。
そう思っています。
しかし実際には、その背後にたくさんの力が働いています。
アルゴリズム。
読者の反応。
再生数。
「いいね」の数。
コメント。
プラットフォーム独自の文化。
人気発信者の文体や話し方。
そうしたものから毎日のようにフィードバックを受けています。
人間はそこから、
「こういう自分でいると、この場所では生きやすい」
ということを学習します。
そして、その環境に適応していきます。
魚が水に適応するように、人間はメディアに適応するのです。
昔のインターネットには、もっと変な人がいた
昔のインターネットは、もう少しカオスでした。
匿名掲示板。
個人サイト。
個人ホームページ。
よく分からない日記サイト。
誰が読んでいるのか分からない文章を、延々と書いている人もいました。
非常に執念深い人もいました。
性格の悪い人もいました。
何を考えているのかよく分からない人もいました。
今なら到底「最適化されていない」と言われるような発信も大量にありました。
しかし、その代わり妙に人間臭かったのです。
もちろん昔のインターネットが素晴らしかったと言いたいわけではありません。
荒れていましたし、問題も大量にありました。
ただ、現代よりも「その人の変さ」がそのまま残っていたように思います。
今のSNSは、そこを少しずつ削っています。
プラットフォームごとに、
「このような人が望ましい」
「こういう話し方が伸びる」
「こういう人格が好かれる」
という型ができています。
そして人間は、その型へと近づいていきます。
SNSは「人格の型」なのではないか
私は、現代のSNSというものは、単なる情報発信ツールではなく、
人格の型
なのではないかと思っています。
YouTubeにはYouTube向きの人格があります。
TikTokにはTikTok向きの人格があります。
noteにはnote向きの人格があります。
Xにも、Instagramにも、LinkedInにも、それぞれ独特の人格があります。
そして恐ろしいのは、それが強制されているわけではないことです。
誰も、
「このような人格になりなさい」
とは言いません。
ただ、その人格の方が反応が取れます。
フォロワーが増えます。
再生数が伸びます。
評価されます。
すると人間は、自発的にそこへ近づいていきます。
この仕組みはかなり強力です。
命令されて変わるのではありません。
自分から進んで変わっていくからです。
「どこで発信するか」は、想像以上に重要です
だから私は最近、
どこで発信するかは、何を発信するかと同じくらい重要なのではないか
と思うようになりました。
同じ人間でも、YouTubeを10年やった場合と、noteを10年やった場合と、ポッドキャストを10年やった場合では、かなり違う人格になっている可能性があります。
なぜなら毎日、違う評価軸の中で生きることになるからです。
YouTubeなら視聴維持率。
TikTokなら一瞬の引力。
noteなら共感や自己物語。
SNSごとに違う「望ましい自分」が存在しています。
そして人間は、それに合わせて変形していきます。
メディアを選ぶというのは、単なる集客チャネルを選ぶことではありません。
未来の自分の人格を選ぶことでもあるのです。
ポッドキャストには、まだ余白がある
その意味で、私はポッドキャストというメディアを比較的ありがたいものだと感じています。
もちろんポッドキャストにも独特の文化はあります。
しかし、動画ほど視覚的な演出を求められません。
短時間で結論を出さなくても構いません。
多少話が脱線してもいい。
考えながら話してもいい。
間があってもいい。
そして何より、他の発信者の姿が常に目に入ってくるわけではありません。
自分が話したいことを、自分のペースで話すことができます。
それだけでも、人格への圧力はかなり違います。
私自身、これからもポッドキャストでは、周囲の発信者に合わせるより、自分が考えていることをなるべくそのまま話していきたいと思っています。
メディアを使っているつもりが、メディアに使われている
私たちは普通、
「自分がSNSを使っている」
と思っています。
しかし実際には、長く使っているうちに、SNSの側からも作り変えられています。
話し方。
文章の書き方。
感情の出し方。
考え方。
そして、人格そのもの。
そう考えると、メディアというものはかなり恐ろしい存在です。
情報を伝える道具であると同時に、そこにいる人間を静かに加工していく装置でもあります。
だからこそ、発信するときには、
「何を語るか」
だけでなく、
「この場所に長くいることで、自分はどんな人間になっていくのか」
ということも考えた方がいいのではないでしょうか。
メディアはメッセージです。
しかし今の時代は、それだけではありません。
メディアは人格でもある。
私は最近、そんなことを考えています。