年を重ねることの価値、そして敬意の必要性

2025年8月13日水曜日

考えかた

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こんにちは。今回は、職場や社会における「年齢」と「敬意」について、私が感じていることをお話ししたいと思います。

最近、日本の職場や社会の空気の中で、年配の方々がどこか疎まれているような雰囲気を感じることが増えてきました。あからさまに口にする人は少ないのですが、「あの人は時代遅れだよね」「年を取っているから頭が硬い」といったレッテルが年配者に貼られてしまうことがあります。確かに、そういった一面を持つ年配の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それだけを理由にすべてを否定してしまって良いのでしょうか。私はそこに強い違和感を覚えます。

企業の採用や人事の場面においても、年齢が高いというだけで不利になるという現実があります。ホワイトカラーの仕事であっても、若い人の方が良い、長く働けるからという理由で年配者が選ばれないのです。よく言われるのは、同じスキルを持つ労働者が2人いた場合、企業は若い方を選ぶということです。これは、若い人の方が長く働いてくれるだろうと見込まれるためだとされています。

しかし、今の社会で若者が本当に長く働くかどうかは分かりません。かつて日本の高度経済成長期のように、一社で定年まで働き続けるという時代ではありません。むしろ、自分探しのために積極的に転職を行う人が増えているのではないでしょうか。

私は、この問題について考えるとき、年配の人が職場にいることで本当に何か不都合があるのかという疑問が浮かびます。実際には、経験が豊富で落ち着きがあり、若手が見えていない部分を補ってくれる力は、現場でこそ生きるはずです。

そして、人として、年齢を重ねた人に対して敬意を払うことは、決して時代遅れの考え方ではないと私は思います。これは、年功序列や儒教の「長幼の序」といった古いシステムの話ではなく、人間としての根源的な感覚に近いものだと感じています。

一方で、若いというだけで過剰に期待されたり、周囲にちやほやされたり、多少の未熟さが見逃されたりする風潮も、少し行き過ぎていると感じます。もちろん、若い世代の挑戦や新しい感性は大切にすべきですが、それが年配者を排除する空気になっているのだとしたら、それはおかしいのではないでしょうか。若い人も当然年を取っていくわけですから、いつか自分もその場所を去らなければならない、という覚悟ができているか、という話にもなります。

やはり理想的なのは、世代を超えてお互いがリスペクトし合いながら働く社会です。その中でこそ、信頼やチームワークが生まれ、仕事の質も上がっていくでしょう。

私個人としては、年を取ること自体が、それだけで価値なのだと思います。人生を歩んでいると、苦労したり、恥をかいたり、人間関係に悩んだりすることが多々あります。若い頃は仲が良かった人と、年を取って社会的な立場が変わると、うまくいかなくなるという悩みも出てきます。年を取るということは、人生が単純ではなくなっていく問題に直面するということです。

そうした時間を積み重ねてきた人には、言葉にできない深みがあると私は信じています。それを無視し、若い人を無条件に賛美して持ち上げる社会は、どこか薄っぺらく、冷たい社会だと感じてしまうのです。

だからこそ私は言いたいです。職場であれ、日常であれ、年を重ねた人には一定の敬意を持って接するべきではないでしょうか。単に年を取ったから「老害」だから退場しろ、というのは暴論の極みだと思います。

もちろん、「老害」のような人もいるのは事実です。しかし、それを単純に「老害」だと言って切り捨てるのは間違っています。私は、年齢に関わらず、様々な立場の人がフラットに接し、リスペクトし合える社会が好きですし、そうであれば安心してこの日本という社会で年を取れるな、と感じます。

確かに、この問題はそう簡単には解決しないでしょう。しかし、たとえ「あの人、老害だな」と思われつつも、完全に切り捨てずに、そういった人が組織の中に存在できるくらいの余裕はあった方が良いと思うのです。なぜなら、若い人だけが勢いで突っ走って失敗してしまう場合があるからです。そこでブレーキの役割を果たし、うまく制御していくのが年配者の役割なのではないかと感じています。

私たち一人ひとりが、年齢に関わらずお互いを尊重し、それぞれの持つ価値を認め合うこと。そこから、より豊かな社会が生まれるのではないでしょうか。



Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

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