キャラ文化に巻き込まれない生き方

2025年9月7日日曜日

日本文化

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日本社会で生活していると、「キャラ」から逃れることは難しいと感じます。

キャラとはつまり、自分が周囲からどう見えるか、一言で「どんな人」と説明されるかということです。職場でも学校でも、人は誰かに「この人はこういう人」とラベルを貼り、その枠組みの中で理解しようとします。

「真面目キャラ」「酒好きキャラ」「天然キャラ」「チャラオキャラ」──こうした言葉は日常にあふれています。そして、周囲にキャラを示せない人は不安を抱かれやすく、場合によっては排斥されることもあります。キャラは居場所を確保するためのチケットのように機能しているのです。


日本だけではないキャラ文化

以前はこれを日本特有の現象だと思っていました。しかし、ベトナム・ホーチミンのローカル企業で働いたとき、同じ構造を目の当たりにしました。

例えば、営業職の女性で「あまり働いていないように見える人」がいました。ですが彼女はお調子者で明るく、ズケズケと物を言う性格だったため、多少サボっていても誰も咎めませんでした。
一方で、事務職の女性は一切サボらず常に真面目に働いていました。両者ともに、その「キャラ」によって集団の中で位置づけられ、居場所を得ていたのだと思います。


キャラを演じられない人間

世の中には、「自分はこういう人間だ」と堂々とキャラを押し出せる人もいます。ですが私はそれができませんでした。むしろ場に合わせてしまうことが多く、いつも演技をしているような感覚に陥り、疲れてしまったのです。キャラを武器にできる強さを持てなかったのです。


「キャラが分からない」と言う人たち

「そんなキャラだったっけ?」「キャラが分からない」と言う人もいます。正直、この発言は浅はかに感じます。なぜなら、それは人を外見や表層的な振る舞いでしか判断していない証拠だからです。

「キャラが分からない」というのは、「この人をラベル化できないから不安だ」ということの裏返しに過ぎません。ですが、人間はラベル以上に複雑で、矛盾を抱えた存在です。キャラという言葉に逃げるのは思考停止であり、洞察の浅さをさらけ出しているように見えてしまいます。


善悪もまたキャラと同じ構造

キャラ文化は、人間を単純化したがる習性の表れです。それは善悪の問題にも通じます。
「善人に見える人」にも悪の要素はありますし、「犯罪者」にも人間的な一面はあります。白か黒かで割り切れない複雑さを抱えているのが人間なのだと思います。

しかし大半の「普通人」にとって一番不安なのは、キャラが不明な人です。何者か分からない存在は恐ろしく、排除したくなる。その心理が社会をキャラ文化へと縛りつけているのだと思います。


キャラ文化に巻き込まれない生き方

冷静に考えれば、キャラがあるかないかは実害には直結しません。私は、気の合う人とだけ関わればいいし、嫌な人は無視すればいいと考えています。だから、キャラがない人がいても気になりません。ですが「普通人」にとってはそうはいかないようです。人を簡単に理解したがるからこそ、社会全体がキャラ文化に絡め取られてしまうのだと思います。

しかし、無理にキャラを演じて自分をすり減らす必要はありません。むしろ、キャラに巻き込まれない生き方を選ぶ方がずっと健全です。

気の合う人とだけ関わり、それ以外には無理に合わせない。
それこそが、不安や同調圧力から自由になるための道だと考えます。


終わりに

あなたの周りにも「キャラ発言」をする人はいるでしょうか。
そしてあなた自身は、どんなキャラを演じていますか。

もしかすると「キャラなんて演じていない」という方もいるかもしれません。その自由さを大切にすればいいと思います。あるいは、一度キャラを演じるのをやめてみると、意外な景色が見えてくるかもしれません。


Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

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