「日本の旅館で働く人に、必ずしも上手な外国語は必要ない」――そんな言葉に出会ったとき、私は深く納得しました。便利さを超えた「不便さ」こそ、旅を豊かにする要素なのだと気づかされたからです。
流暢な英語より片言の日本語の魅力
日本を訪れる外国人旅行者にとって、流暢な英語で迎えられるのは安心できることです。しかし、それが必ずしも「心に残る体験」になるとは限りません。
片言でも一生懸命に日本語で話しかけてもらえる――その不完全さが、かえって「日本に来た」という実感を深めてくれるのです。観光客の中には、自分が覚えた日本語を試してみたい人もいるでしょう。そんなとき、すべて英語で返されてしまえば便利ではあっても、どこか物足りなく感じるのではないでしょうか。
タイでの「不便なやりとり」
この感覚は、私自身も経験しました。タイに住んでいたころ、私は熱心にタイ語を学んでいました。しかし、バンコクでは英語が通じるため、タイ語で話しかけても流暢な英語で返されることがしばしばありました。
もちろん助かる一方で、「せっかくタイ語を使いたかったのに」と残念に感じることも多かったのです。旅や異文化体験には、言葉が通じない不便さがつきもの。その壁を身振り手振りや工夫で乗り越えることにこそ、旅の醍醐味があるのだと気づかされました。
30年前のプラハ旅行で味わった不便さ
初めての海外旅行は30年前、チェコのプラハでした。当時はインターネットもなく、紙のガイドブックを頼りに歩き回るしかありません。携帯電話を持っている旅行者も少なく、まさに「不便な時代」でした。
チェコ語は挨拶程度しかわからず、言葉が通じないこともしばしば。しかし、その不便さがかえって旅を面白くし、深い記憶として残りました。情報の少なさ、意思疎通の難しさが、旅を冒険に変えてくれたのです。
不便さがもたらす豊かさ
いまや翻訳アプリの進化によって、言葉の壁は急速に低くなっています。いずれ誰もが不自由なく会話できる時代が来るでしょう。それは素晴らしいことですが、同時に旅のドキドキや冒険心が薄れてしまうのではないかという懸念もあります。
だからこそ思うのです。外国語が完璧にできる必要はない、と。むしろ、不便さを残すことで、観光客に「異国に来た」という体験を強く与えることができるのではないでしょうか。
便利さだけが豊かさではありません。不便さを楽しむ心こそが、旅の醍醐味であり、人生を深めていく力になるのだと私は確信しています。