日本人が「自由」を感じにくい社会構造 ― 「生きづらさ」は知性が生きている証拠

2025年10月18日土曜日

日本語 日本文化

t f B! P L

 今日は、日本人がなぜ自由を感じにくいのか、そして私たちがなぜ「生きづらい」と感じるのかについて考えてみます。


経済の復興と、心の停滞

戦後の焼け野原から日本人が這い上がった時代、
人々は生きることに精一杯で、「生きづらい」と感じる暇すらなかったでしょう。

しかし、高度経済成長を経て、バブルの栄華が過ぎ去り、
「失われた30年」と呼ばれる停滞期を迎えた現代の日本では、
生きることの意味そのものが問われ始めました。

かつては生活の困難さが問題だった。
今は――生きる実感のなさが問題です。


「自由」は危険で、わがままだとされる国

日本では、「自由」という言葉がどこか危険視されてきました。
自由に発言することは「空気を読まない」とされ、
自由に行動することは「わがまま」とされる。

この国では、
「みんなと同じ」であること、
「波風を立てない」こと、
「空気を読む」ことが美徳とされてきたのです。

時代が昭和でも令和でも、この構造は変わっていません。
つまり、日本社会の土台そのものが自由を感じにくいように設計されているのです。


法律ではなく、「空気」が人を縛る

日本には、法律よりも強力な支配装置があります。
それが、空気による統制です。

会社では「意見を言わない方が安全」、
学校では「出る杭は打たれる」、
SNSでは「正論を言うと叩かれる」。

命令されたわけでもないのに、人々は自ら口を閉ざし、
自発的に不自由を選び取っているのです。

日本の教育は、自由よりも秩序を、個性よりも協調を教えてきました。
その結果、国全体が“相互監視”の状態に陥っています。
誰もが監視者であり、同時に囚人でもある。

それはまるで――
囚人たちが互いを監視し合う刑務所のような社会です。


世界で最も美しくデザインされた監獄

この「監獄」は不思議と快適です。
エアコンが効き、Wi-Fiがあり、食事も安全。
だから誰も出ようとしません。

もし出ようとする者が現れれば、
周囲が優しく引き戻すのです。
「危ないからやめなさい」「そんな非常識なことをしても意味がない」と。

日本社会の最大の問題は、
その不自由さがあまりに整っていて、誰も気づかないこと。
これはまさに、

“世界で最も美しくデザインされた監獄”
です。


思考を嫌う社会 ― 「反思考主義」という病

「私は生きづらさを感じない」という人もいるでしょう。
けれど、それは幸福というよりも、感受性が麻痺している状態かもしれません。

日本では、「考える」こと自体が嫌われます。
「面倒くさい」「空気を壊すな」と言われ、
効率やスピードばかりが称賛される。

深く考えるよりも、
“とりあえず分かりやすい”ことが好まれる。
これがこの国を覆う**反思考主義(Anti-Thoughtism)**です。

思考する人は「厄介者」、
思考を止めた人が「常識人」。

そして彼らには、思考を止めるための道具が用意されています。
SNSの無限スクロール、コンビニの新商品、数秒で笑える動画――。
それらは、心を軽くする代わりに、
思考の筋肉を静かに衰えさせていくのです。


「生きづらさ」は、知性がまだ生きている証

では、「生きづらさ」とは何でしょうか。
私はそれを、知性がまだ生きている証拠だと考えます。

痛みや違和感を覚えるのは、まだ心が鈍っていないからです。
そして、自分の頭で考えることこそが、
この社会で得られる唯一の自由です。

自由とは、気ままに振る舞うことではありません。
自分の頭で問いを立てること。
つまり、「思考の起動」です。

この見えない監獄の中で本当に自由になるには、
まず「なぜこうなっているのか」と問い続けること。
それが、自由への第一歩です。


そして――「生きづらい人」こそ、まだ正気だ

この国で「生きづらい」と感じる人へ。
どうかそれを恥じないでください。

あなたが息苦しさを覚えるのは、
まだ思考と感受性が機能しているからです。

生きづらさとは、社会に適応できないことではなく、
社会の異常に対してまだ反応できること。

だから、私はこう言いたい。

「生きづらい」と感じている人ほど、まだ正気である。

その違和感を、誇りとして生きていこう。


Preplyでビジネス日本語を教えています。日系企業で働いてみたい方、日本語の更なるスキルアップを目指す方など大歓迎です。お気軽にお問い合わせ下さい。

このブログを検索

ブログ アーカイブ

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

ポッドキャスト ビジネス日本語講座

QooQ