今日は、多くの日本人に愛されているサウナというテーマを通して、
現代人の「安心安全」な思考について少し掘り下げてみたいと思います。
バンコクの下町サウナと、庶民の温度
私自身、いまはほとんどサウナに行きませんが、
東南アジアに暮らしていた頃は頻繁に通っていました。
タイ・バンコクのピンクラオという地区に、
地元の人しか行かない小さなサウナがありました。
水風呂の中には他人の垢が浮いていて、
衛生的とは言えませんでしたが、
そこには人間の体温と生活の匂いがありました。
仕事で疲れた体を癒しながら、
庶民の笑い声や、果物の甘い香りに包まれて過ごす時間――
それはまさに、“乱れた美しさ”のある癒しでした。
ラオス・ビエンチャンでは薬草サウナが盛んで、
娯楽が少ないこの街では、人々が自然にそこへ集まります。
お金も情報も少ないが、人と人との距離は近い。
そんな不完全で豊かな癒しが、たしかに存在していたのです。
「ととのう」という言葉への違和感
日本では、いまや「サウナでととのう」という言葉が
すっかり定着していますね。
体を温め、水風呂に入り、外気浴でクールダウン――
心身が整い、爽快感が得られる。
この「整う」という言葉には、どこか宗教的な響きすらあります。
もちろん、サウナを否定するつもりはありません。
むしろ好きな人が多いのも理解できます。
ただ私は、この「整う」という言葉に、
どうしても違和感を覚えるのです。
なぜなら――それはあまりにも安心安全な話題だからです。
無害な話題という「現代の麻酔」
サウナの話をして、誰かが怒ることはまずありません。
右派も左派もリベラルも保守も、
サウナの前では皆、平等です。
「整いました」と言えば、
誰からも嫌われない、誰も傷つかない。
それはつまり、摩擦のない話題です。
しかし、摩擦のない話題とは、
裏を返せば「何も生まれない会話」でもあります。
私はその無臭の快適さに、どうしても退屈を感じてしまうのです。
天気の話、流行の話、そしてサウナの話。
安全で無害だが、思考はどこにも向かわない。
私たちはいつの間にか、
「誰も不快にしないこと」を生きる目的にしてしまったのではないでしょうか。
優しさが生んだ、思考停止の国
日本人の優しさは、確かに世界でも特異です。
相手を傷つけないために曖昧にし、
波風を立てないように言葉を選ぶ。
それは美徳でもあります。
しかし同時に――思考の放棄でもあります。
「ととのう」という言葉が心地よく響くのは、
その背後に「乱れ」や「痛み」を排除した社会があるからです。
つまり、「整う」とは、乱れない生き方の象徴なのです。
でも、人間は乱れの中でしか成長できません。
違和感、不安、怒り、嫉妬――
それらを避けて通る人生に、発見は生まれません。
「乱れる」ことの尊さ
私は、整うことよりも、
ときに乱れて、考え、立ち止まることのほうが大切だと思います。
サウナで「整う」のは気持ちいい。
けれど、社会全体が「整うこと」ばかりを目指すと、
そこにあるのはただの思考の冬眠です。
不快なものに触れず、
違う意見を避け、
心地よさだけを追い続ける。
その結果、人は「考える力」を失っていく。
整いすぎた社会ほど、
実は生きることが息苦しくなるのです。
本当に「整っている」とは何か?
サウナで汗を流すことも、癒しを求めることも悪くありません。
ただ、整い続けることを目的化してしまうと、
人間は鈍くなっていくのです。
完璧に整った状態とは、言い換えれば“動かない”状態です。
人間は本来、未完成で、矛盾を抱え、揺れながら生きる存在。
その揺らぎの中にこそ、思考も感情も生まれます。
だから私はこう思います。
たまには「整わない」一日があっていい。
乱れて、迷って、考える――
その時間こそが、最も人間らしい整い方ではないか。
それでは、また。