今日は、いま日本で静かに進行している異様な現象——
芸能人が文化人の役割を代替し、社会問題について語りはじめた流れについて考えていきたいと思います。
本来は専門家が議論すべき領域に、テレビタレントや著名人が違和感なく入り込む。
そして、その言葉が「分かりやすい」という理由だけで、世間に強い影響力を持ってしまう。
この状況を私は、
知性が軽くなりすぎた社会の兆候
としてとらえています。
■ 思想家のように語りはじめた芸能人
現代のテレビ/ネット空間では、芸能人が政治・教育・格差・環境・ジェンダーといった、かつて「思想家の領域」だったテーマに堂々と踏み込んでいます。
もちろん、芸能人の中には情報処理能力が高く、理解力もある方は多くいます。
しかし彼らの多くが持っているのは、
考える力(思索)ではなく、整える力(編集)
です。
つまり、
どこかで聞いた話
誰かがまとめた情報
流行している言説
これらを口当たりよく「再配置」して語っているだけであり、
そこに痛み、責任、覚悟といった思想の重さは存在しません。
「喋れる=思想がある」
この錯覚が社会に広がっていることこそ、問題の核心です。
■ メディアが放棄した「線引」という知の防波堤
本当の問題は、芸能人が発言することそのものではありません。
より深刻なのは、
メディア側が“線引”を放棄したこと
です。
かつては、
ここは思想の場
ここは娯楽の場
ここは学術
ここはお笑い
という明確な境界がありました。
しかし現在は、すべてが混ざり合っています。
「喋りがうまい人」が「考えられる人」の代わりを務める
という異様な状況が当たり前になりました。
その背景にあるのは、
メディアが「受けの良さ」「再生数」「フォロワー数」を知性の基準にしてしまったことです。
■ 反応の速さが知性の代用品になってしまった
芸能知性の核には、「反応の速さ」があります。
間を空けずに話す
テンポよく返す
即答する
その場の空気をスムーズに流す
こうした即応性が、日本では「頭の良さ」として評価されがちです。
しかし、思考とは本来、
沈黙を必要とする行為
です。
深く考えれば、言葉は遅くなります。
沈黙を恐れなければ、議論は重くなります。
ところが、
沈黙は気まずい
間が怖い
「間」を埋める人が優秀に見える
という日本特有の文化が、反応の速さ=知性という誤解を生み出しました。
その結果、
思索よりもテンポが優先される社会が完成してしまったのです。
■ 「分かりやすさ」の幻想が生み出す思考停止
現代日本のメディアは、真実よりも「分かりやすさ」を優先します。
丁寧に説明すると難しい
難しい話は“数字が取れない”
だから噛み砕いた、柔らかい言葉に置き換える
こうして生まれたのが、芸能人による「共感しやすい語り」です。
しかしその影響は深刻です。
人々は「分かった気分」を買うようになりました。
芸能人が語ると「自分も理解している」と錯覚してしまう。
これは思考の代行化であり、「考えたつもり」を大量生産しています。
つまり人々は自分の頭で考えることを放棄し、
感じの良い声の方に導かれるようになってしまったのです。
■ 思想と演出の境界が消えた社会
知性の領域と娯楽の領域の境界が消えると、
言葉はすべて“同じテンポ”で消費されます。
社会問題
個人的な悩み
経済の話
お笑いトーク
芸能ニュース
これらが同じリズム、同じテンションで語られ、
言葉の重さが消えてしまいます。
「話がうまい人」が「思想のある人」と誤認され、
「話が遅い人」は「頭が悪い」と誤解される。
日本社会は今、
浅い言葉ほど評価され、深い沈黙が排除される文化に移行しています。
■ メディアへの提言:思想と演出を切り離せ
芸能人が社会問題を語ること自体は、止めることはできません。
しかし、メディアは少なくとも、
「これは思想ではなく、演出である」
「この言葉は見せ方であり、知ではない」
という線引を明確にすべきです。
その線引なしに垂れ流され続ければ、
社会は「喋りやすい言葉」に支配され、
思考なき言葉が国家の空気を構築してしまうことになります。
そして私たちは、
「分かった気分」で生きるだけの、
思考停止する国民になってしまうでしょう。