今日は「本物のニートと演じるニート」というテーマで、YouTubeやSNS時代における“リアル”の扱われ方について考えていきたいと思います。
■ ニートは「社会問題」から「コンテンツ」へ
日本では昔から「ニート」は社会問題として扱われてきました。働かず家にこもり、親に養われて生活している——その姿は何度もニュース特集で取り上げられ、識者が深刻な顔でコメントする姿がよく見られました。
しかし現在、ニートの扱われ方は大きく変わりました。
ニートはもはや社会問題ではなく “コンテンツの主役” になったのです。
YouTubeやSNSでは、ニートを自称する人たちが、「自堕落な生活」や「ダメ人間の姿」をあえて演じ、それを娯楽として視聴者が楽しむ構造が成立しています。
そして興味深いのは、視聴者がその“リアルさ”を細部まで審査している点です。
ある動画では、ニートを名乗る男性が奇声を上げたり部屋の壁を叩いたりしていましたが、コメント欄にはこんな指摘がありました。
「下着が綺麗すぎる。本物のニートなのか?」
視聴者は、映像の端々から“真偽”を見抜こうとします。
まるで現実をオーディションのように採点する社会になってしまったかのようです。
■ 「安全に観察できる程度のリアル」という矛盾
しかし、この「下着が綺麗だから嘘だ」という指摘には、現代社会特有の矛盾が隠れています。
では、もし本当に汚れ、匂いも放ち、皮膚も荒れ果てた“真のニート”が現れたら、視聴者はそれを歓迎するのでしょうか?
答えはおそらく NO です。
人は「本物を見たい」と言いながら、本当に汚いものは見たくありません。
つまり、現代の視聴者が求めているのは、
“安全に観察できる程度のリアル” というご都合主義的リアリティ
なのです。
・綺麗すぎても嘘っぽい
・汚すぎても不快
この「ちょうどいいリアル」こそが、現代のコンテンツに求められる“リアルらしさ”であり、本物の現実ではありません。
■ カメラの外側に存在する「本当の絶望」
本物のニートの生活がどんなものか、実際にはカメラには映りません。
洗っていない布団の匂い
何日も同じ部屋着
誰とも会話しない数ヶ月
生活リズムが崩壊した静かな絶望
将来への恐怖と無感覚
こうしたリアルは動画化できません。
むしろ、動画にした瞬間、その生活はもう「演出」になってしまうからです。
視聴者が求める「リアル」は、深い絶望ではなく、安心して眺めていられる程度のリアリティです。だから、判断の材料は「下着の綺麗さ」のような、目に見える表面的な情報に偏ります。
本当は、
人々が欲しているのは“現実”ではなく、“信じられる嘘” なのです。
■「演じる無気力」と現代人の病理
そもそも、本当に深刻な孤立状態にある人は、スマホのカメラを前に立つことすらできません。
動画を撮影し、編集し、アップロードするという行為そのものが、
すでに 「社会との接続」 を意味しています。
「疲れた」と言いながらも撮影をし、
「生きる気力がない」と言いながらもカット編集を行い、
「何もできない」と言いながらもYouTubeにアップする。
ここには、「自然体」のように見えて、実は完全に演出された無気力があります。
そして視聴者も、その“演じられたリアル”であることをうっすら理解しています。
現代人は皆、
半分は演者であり
半分は観客であり
半分は批評家です
誰かを演じ、誰かを採点し、その両方に疲れています。
■ “本物のニート” と “演じるニート” の境界はどこにあるのか?
境界は思われているより曖昧です。
本物を演じるうちに本物になっていく人もいる。
演じているつもりが、本当に社会から離れてしまう人もいる。
あるいは、本当に孤立していた人が、演じたことで救われることもある。
つまり、問題なのは、
「どこからが本物か」ではなく、
「本音で生きるとは何か」
という問いなのだと思います。
現代社会は、リアルと演技の境界線が溶けつつあります。
本物らしさとは何か、リアルとは何か、
その判定基準はどんどん曖昧になっています。
■ 結論:リアルを疑う時代に必要なのは「本音」だけ
本物のニートと演じるニート。
この二つの間に横たわるのは、単なる生活スタイルの違いではありません。
それは、
“リアルを信じられない時代”に、どうやって本音で生きるか
という、私たち全員に共通する問いです。
スマホの画面越しに「本物」を探し続けても、
そこにあるのは「リアルっぽく作られたリアル」でしかありません。
だからこそ、必要なのは
自分にとってのリアリティをどう築くか
という、もっと個人的で静かな問いなのではないでしょうか。