今日は「我欲」という、少し居心地の悪い言葉について考えてみたいと思います。
我欲と聞くと、多くの人は反射的にネガティブな印象を抱くのではないでしょうか。
貪欲、自己中心的、エゴイズム。
日本語の中で、これほど嫌われやすい言葉も珍しいように思います。
日本社会では、我欲は「表に出してはいけないもの」として扱われがちです。
むしろ、持っていないふりをすることが、大人としてのマナーのようにさえ語られます。
日本社会における「我欲は隠すもの」という常識
日本の企業社会では、雑談の中で
「将来どうしたいのか」
「どんな人生を送りたいのか」
といった話題が出ることがあります。
しかし、そこで
「お金をたくさん稼ぎたい」
「楽をして贅沢に暮らしたい」
などと正直に口にする人は、ほとんどいません。
たとえば、
「宝くじで1億円当たったらどうする?」
という定番の話題。
模範解答はだいたい決まっています。
「いや、仕事は続けますよ」
「働かないと人間ダメになりますからね」
こう答えておくと、場の空気は丸く収まります。
逆に、高級車を買って遊びたい、仕事を辞めたい、などと言おうものなら、
「考えが浅い」
「品がない」
と評価されかねません。
要するに、日本社会では
我欲がむき出しになった瞬間、人は警戒されるのです。
人を本当に動かしているものは何か
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。
人間を本当に動かしているものは、
立派な理想や、綺麗な建前でしょうか。
私はむしろ、
人を動かしているのは、もっと生々しい我欲の方ではないか
と思っています。
私たちは日々、
愛されたい
認められたい
理解されたい
という感情を抱えながら生きています。
ところが「愛されたい」という気持ちは、
他人の視線を基準に自分の価値を測る構造を生みます。
他人がどう思うかによって、自分の存在を決めてもらう生き方です。
そこには、主体性はありません。
「愛したい」という言葉が持つ危険な力
一方で、「愛したい」という言葉はどうでしょうか。
それは、
自分から動くこと
自分から差し出すこと
を意味します。
時間、言葉、関心、エネルギーを、
自分の意思で他者に向ける行為です。
しかし、この「愛したい」という態度には、
常に拒絶のリスクが伴います。
気持ち悪いと思われるかもしれない。
拒否されるかもしれない。
価値がないと突き返されるかもしれない。
だから多くの人は、
安全な「愛されたい」に留まり、
危険な「愛したい」には踏み出しません。
我欲は、愛の原型である
私は、我欲とは愛の原型だと考えています。
誰かを強く求めること。
何かを欲すること。
お金を稼ぎたい、豊かになりたいと思うこと。
それらはすべて、
人が生きている証拠です。
我欲を完全に否定するということは、
同時に、情熱や衝動そのものを否定することでもあります。
我欲のない人間は、
穏やかではありますが、
何かを生み出す力を失っていきます。
我欲が嫌われる本当の理由
我欲が嫌われるのは、
我欲そのものが悪だからではありません。
問題なのは、
未成熟な我欲を、そのまま他者にぶつけてしまうことです。
消化されていない欲望は、
他人を消耗させ、場を壊します。
だから日本社会は、それを「下品」と呼び、排除しようとするのです。
しかし、だからといって
我欲を無理に隠し、綺麗な人間を演じることが、成熟ではありません。
我欲は「隠す」のではなく「耕す」もの
大切なのは、
自分の中にある我欲を、
静かに、正面から見つめることです。
そして、それを
言葉にし
思考にし
仕事や表現や行動へと変換していくこと。
私はこれを、
我欲を「耕す」
と呼びたいと思います。
耕された欲望は、
芸術になり
仕事になり
創造のエネルギーになります。
危険を引き受けたとき、人は表現者になる
「愛されたい」は安全です。
しかし、「愛したい」は危険な告白です。
その危険を引き受けた瞬間、
人は他人の評価に生きる存在から、
自分の衝動で生きる存在へと変わります。
愛されたい自分を否定する必要はありません。
ただ、その奥にある
「愛したい」という原動力に気づくこと。
それが、人として成熟していく第一歩なのだと思います。
我欲を恐れない人は強い。
どれだけ愛されるかではなく、
自分がどれだけ愛せるか、どれだけ動けるかを問う。
その姿勢こそが、
人生を前へと押し出す、確かな力になるのです。